バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 私の訴訟事件が法廷にかけられると,バーンズ博士は,私の講義は不十分であり,浅薄でお座なりのものである,と不平を述べた。それまでに終えた講義についていえば,既に私の『西洋哲学史』の初めから2/3まで進んでいた。その講義の原稿を私は裁判官に提出した。・・・。
 そうして私は勝訴した。バーンズ博士はもちろん,可能な限り何度でも上訴した。それで,私が実際に金をもらったのは,私が英国に戻った後であった。その間に(上訴中に)彼は,私の'罪'について記した印刷文書を,ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの学寮長やフェロー(評議員)の一人一人にあてて送り,私を大学に復帰させることの愚かさを警告した。

When my case came into court, Dr. Barnes complained that I had done insufficient work for my lectures, and that they were superficial and perfunctory. So far as they had gone, they consisted of the first two-thirds of my History of Western Philosophy, of which I submitted the manuscript to the judge, ... .. and I won my case. Dr. Barnes, of course, appealed as often as he could, and it was not until I was back in England that I actually got the money. Meanwhile he had sent a printed document concerning my sins to the Master and each of the Fellows of Trinity College, to warn them of their folly in inviting me back.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB26-060.HTM

<寸言>
 ラッセルは、(約2年間バーンズ財団において講義を行った後)1942年12月28日に、バーンズ博士から、5年間の雇用契約を(1943年)1月1日から打ち切るとの通告を、受け取ります。
 ラッセルは裁判に訴えますが、勝訴するのは1943年8月のことであり、実際にお金が入ってきたのは、(1944年に)英国に戻ってからでした。ラッセルは自伝の中で、最初恐れたほど実際は経済的に困窮はしなかったと書いていますが、妻のパトリシアへの影響は非常に大きかったようです。
 英国の貴族は、(少なくとも第二次世界大戦前は)家政婦・保母や家庭教師などを雇うことは常識となっていましたので、貴族であるラッセルと結婚した女性は、家事・育児・料理に時間をさくことなく、「教養を積む」ことや自分のやりたい仕事をすることができました。しかし、収入源がとだえることにより、節約の必要が生じ、パトリシアは家事・育児をしなけばならなくなり、しだいに情緒不安定になっていき、睡眠薬を常用するようになりました(参考: Bertrand Russell : the Ghost of Madness, 1921-1970, by Ray Monk, p.263 = あいにく本邦未訳/パトリシアはもともと家事が大嫌いでした)。そうだからといって、第二次世界大戦の勃発により、英国にもどることもできませんでした。
 それにしても、名著として現在でも世界中で愛読されている『西洋哲学史』(1945年刊)がこのような状況で講義され、後に出版されたことは興味深い事実です。

 
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