バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 しかし,1926年に教育に関する本を出すまでは,どちらかというと貧乏が続いた。その後1932年までは,特に1929年の『結婚と道徳』と1930年の『幸福論』がよく売れたため,経済的に豊かであった。この数年の間の著作のほとんどは一般向きのものであり,またそれはお金を稼ぐために執筆したものであった。しかし,より専門的な著作も何冊か執筆した。・・・。
 私はまた,1922年と1923年(の2度),チェルシー区から,国会議員選挙に立候補した。またドーラが1924年に立候補した。

But I remained rather poor until the book on education in 1926. After that, until 1933, I prospered financially, especially with Marriage and Morals (1929) and The Conquest of Happiness (1930) . Most of my work during these years was popular, and was done in order to make money, but I did also some more technical work. ...
I also stood for Parliament in Chelsea in 1922 and 1923, and Dora stood in 1924.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB24-030.HTM

<寸言>
 ラッセルは1907年にも Wimbledon 選挙区から(婦人参政権や自由貿易を擁護して)国会議員選挙(補欠選挙)に立候補しています。対立候補は保守党の大物の Henry Chaplinでしたが、結局、10,363票対3,297票で破れています(アラン・ウッド『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』p.107)。
 『プリンキピア・マテマティカ』の執筆が終わり、目標がなくなってしまったという思いで、1910年にも Bedford 選挙区から、(今度は自由党の"公認"を得て)立候補しようとしました。しかし.、慣例の信仰問答で信仰する宗教を問われ、自分は無神論者であると答えたため、候補から外されてしまいました。急遽代役がたてられ、その人は当選して郵政大臣になりました。(注:1922年と1923年にチェルシー選挙区から立候補した時は、"労働党"の候補でした。)
 https://russell-j.com/beginner/AB17-010.HTM
 まもなくして、ケンブリッッジ大学から講師になるように誘いが来たため、そちらのほうがより魅力的だったと述懐しています。

 
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#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell