バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )


 祖母は熱烈な小英国主義者であり,植民地戦争を強く非難した。(そうして)祖母は私に,ズールー戦争は非常に邪悪なものであり,大部分,ケープ(南アフリカ植民地)の総督バートル・フレーレ卿(1815-1884)の過ち(責任)であると言った。にもかかわらず,バートル・フレーレ卿がウィンブルドンに移り住んで来た時,祖母は私をつれて彼に会いにいったが,その時私は,祖母が彼を人非人(悪人)として扱っていないのを目撃した。これはとても理解することが困難だと思った。



She (Russell's grandma) was a fierce Little Englander, and disapproved strongly of Colonial wars. She told me that the Zulu War was very wicked, and that it was largely the fault of Sir Bartle Frere, the Governor of the Cape. Nevertheless, when Sir Bartle Frere came to live at Wimbledon, she took me to see him, and I observed that she did not treat him as a monster. I found this very difficult to understand.
 Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1 chap. 1
 More info.:https://russell-j.com/beginner/AB11-190.HTM

<寸言>
 祖母は「熱烈な小英国主義者」でしたが、ラッセルは若い時は「自由主義的」帝国主義者でした。つまり、進んだ西洋文明を世界に広めることはよいことだと考えていました。(注:Liberal Imperialism:19世紀イギリスの’自由主義的帝国主義’。市場を開かない国は,力によって開国させ,自由と文明を世界に広める。ブッシュ元米国大統領とブレア元英国首相は,現代における新自由主義的帝国主義者と揶揄されました。)
 1899年の秋,ボーア戦争(南ア戦争)が勃発しましたが、祖母の教えもむなしく?、当初はまったくボーア人(ブール人)に味方しませんでした。しかし、1901年の初め(ラッセル28歳の時)には,考えを突然変え、ボーア人に味方するようになりました。つまり、「自由主義的」帝国主義者ではなく、平和主義者に変わりました。考えが突然変わったきっかけは、ホワイトヘッド夫人が心臓病で苦悶している姿を目の前にしながら、何もしてあげることができなかったという苦い体験でした。その時のことを、『自伝』で次のように書いています。
 https://russell-j.com/beginner/AB16-030.HTM
「彼女は,苦悶の壁によって,全ての人や全てのものから遮断されてしまっているかのように見え,突如として,人間一人一人の魂は孤独であるという感情が私を圧倒した。結婚してから,私の情緒生活は'穏やか'であるとともに'浅薄な'ものであった。深遠な問題はすべて忘れており,軽薄な如才なさに満足していた。(しかし)突然,大地が私の足下で崩れ去るように思え,そうしてそれ以前と全く異なった世界に自分がいるのを発見した。5分もたたないうちに,ほぼ次のような内省が私の頭を駆け抜けた。:
 人間の魂の孤独は耐えられないものであり,また,'宗教的導師'が説いたような種類の愛が最高度になくしては,いかなるものも人間の魂に浸透することはできない;この愛の泉からわき出でたものでなければいかなるものも有害か,よくても無用である。その当然の結果として,戦争は間違っており,(英国の)パブリック・スクール(主に上流階級の予弟を教育する全寮制の私立中等・高等学校)式の教育は忌まわしいものであり,暴力の行使は非難されるべきである,また,人間関係において,人は,一人一人の人間の内なる孤独の核心にふれあうべきであり,語りかけるべきである。」と。

 
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