しかし,若い時には,ウィリアム・ジェームズが言ういわゆる「強制された選択」ははるかに少ないので,「信じようとする意志」を持つ機会も少ない(注:W.ジェームズの著書のタイトル/一方,ラッセルには Will to Doubt という編集物がある)。若い人たちは,あらゆる問題は未解決(open)であるとみなすように,また議論の結果,いかなる意見でも放棄することができるように、励ましてあげるべきである。
But in youth there are far fewer of what William James called “forced options”, and therefore there is less occasion for the “will to believe”. Young people ought to be encouraged to regard every question as open, and to be able to throw over any opinion as the result of an argument.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-050.HTM
<寸言>
若い人はしがらみがないので比較的自由にものを考えることができる。それに対し大人はいろいろなしがらみがあり、また自分の本心を言わない習慣をいつの間にか身につけ、真理を知る恐ろしさから、「知らなかったことにしておこう」と責任をできるだけとらなくてよい処世術を身に着ける。それは権力者にとってはとても都合がよい。
権力者(政権側)は,マスコミを支配下に置き、自分たちに都合の悪い情報はできるだけ流させないようにいろいろな手を打つ。一つには、「客観的な報道をすべきだ」という言い方で、権力を批判するマスコミおよびジャーナリストは、「偏向している」と批判したり、報道にあたるジャーナリストのスキャンダルを利用したり,時にはでっちあげたりして,マスコミの国民に対する影響力を削ごうとする。 ただし、マスコミに対する直接的なコントロールは政権を失うことにもなりかねないのでで、マスコミ自らが自己規制するように仕向ける。その一つは放送法の活用である。本来、放送法は、権力者を牽制するものでなければならないが、日本の放送法は、大手マスコミに総務省が電波利用権を与えること(即ち、既得権を与えること)によって、マスコミ自らが権力者(政府や総務省)の意向を忖度して、自己規制にはげむように仕向けている。