開かれた精神・知性(偏見がないこと)は,知識への欲求が本物である場合必ず存在しているはずの資質である。この性質が欠けるのは,知識欲とは別の欲求が,自分(we)はすでに真理を知っているのだという信念とからみあっている場合に限られる。これが,偏見がないという性質がおとなよりも若者においてずっと普通にみられる理由である。
Open-mindedness is a quality which will always exist where desire for knowledge is genuine. It only fails where other desires have become entangled with the belief that we already know the truth. That is why it is so much commoner in youth than in later life.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-050.HTM
<寸言>
本当のことを知りたいという欲求が強ければ、人は自然に「オープンな態度」をとることができる。だが、知識への欲求よりも、たとえば、権力を維持し続けたいとか(政権側)、既得権を守りたいとかいう欲求(大手マスコミ側)のほうが強ければ、「オープンな態度」はとれなくなる。
政権側は,マスコミを支配下に置き、自分たちに都合の悪い情報はできるだけ流させないようにいろいろな手を打つ。一つには、「客観的な報道をすべきだ」という言い方で、権力を批判するマスコミおよびジャーナリストは、「偏向している」と批判したり、報道にあたるジャーナリストのスキャンダルを利用したり,時にはでっちあげたりして,マスコミの国民に対する影響力を削ごうとする。
ただし、マスコミに対する直接的なコントロールは政権を失うことにもなりかねないのでで、マスコミ自らが自己規制するように仕向ける。その一つは放送法の活用である。本来、放送法は、権力者を牽制するものでなければならないが、日本の放送法は、大手マスコミに総務省が電波利用権を与えること(即ち、既得権を与えること)によって、マスコミ自らが権力者(政府や総務省)の意向を忖度して、自己規制にはげむように仕向けている。