精神は、不思議な機械であり、提供された原料(材料)をまったく驚くべきやり方で組み合わせることができるが、外界からの原料がなければ無力である。
また(精神は)、ソーセージ製造機と違って、精神は、自力で原料を確保しなければならない。なぜなら、種々の出来事(諸事象)は、私たちがそれらに対して興味を持つことによってのみ経験となるからである。
もしも、種々の出来事が私たちの興味をひかなければ、私たちはそれを全然活用しないことになる。それゆえ、自己の内部にのみ注意を向けている人は、(自分に対しても,世界に対しても)注目に値する何物をも発見しない。
The mind is a strange machine which can combine the materials offered to it in the most astonishing ways, but without materials from the external world it is powerless, and unlike the sausage machine it must seize its materials for itself, since events only become experiences through the interest that we take in them: if they do not interest us, we are making nothing of them. The man, therefore, whose attention is turned within finds nothing worthy of his notice, ..
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap.11: Zest
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-020.HTM
<寸言>
外界から情報をできるだけ多く受けとればよい,というものでもない。テレビで「受動的に」情報(映像や音声・文字データ)を受け取ってばかりいると,間違った理解をしたり,情報を流すものの都合のよい視聴者になったりするかもしれない。
しかし,マスコミは便利かつ重要な情報源だから,受け手はかしこく,自分で情報を選別し,不十分な場合は自ら調べて補充したり,間違いを正したりする必要がある。それに,偏見がないということと,空っぽな精神は同じものではない。
ラッセル法廷(ヴェトナム戦争犯罪法廷)メンバーの第1回集会での94歳のラッセルのスピーチより:
「我々は、無関心な人間のみが公平な人間であるという考えを拒否しなければなりません。我々は偏見のない広い心と空っぽな心とを混同するような、人間の知性についての堕落した考え方は拒絶しなければなりません。 」