バートランド・ラッセルの言葉366_画像版

n.0021j (Nov. 21, 2016)

     
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  バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

 


 1939/1940学年度(1939.9~1940.6)の終わり頃(注:1940年の5月頃か?),ニューヨーク市立大学教授になるよう招聘された。この事は既に決定されているように思われた。そこで,私はカリフォルニア大学の学長宛に辞職願い(の手紙)を書いて提出した。学長が私の手紙を受け取って30分後に,ニューヨーク市立大学教授に私が任命されるということはまだ決定されたものでないということがわかった。そこで私は,辞表の撤回を学長に頼んだ。しかし彼はもう遅すぎると言った。熱心なクリスチャンの納税者たちが,自分たちが納めた税金を不信心者の給料にあててはいけないといって抗議している時だったので,学長は私(という厄介者)から逃れられるのを喜んだ。

Towards the end of the academic year 1939-1940, I was invited to become a professor at the College of the City of New York. The matter appeared to be settled, and I wrote to the President of the University of California to resign my post there. Half an hour after he received my letter, I learned that the appointment in New York was not definitive and I called upon the President to withdraw my resignation, but he told me it was too late. Earnest Christian taxpayers had been protesting against having to contribute to the salary of an infidel, and the President was glad to be quit of me.
 出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968
 詳細(PCサイト):http://russell-j.com/beginner/AB26-030.HTM

[寸言]
 ラッセルは、1929年に Marriage and Morals を出版したが,自由の国アメリカにおいても第二次世界大戦前は,現在では考えられないほど保守的な社会であり、ラッセルの『結婚論』は「不道徳な」書物として受け取られていた。

 ラッセルは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で哲学を教えている時に、ニューヨーク市立大学教授として招聘されることが決まっていた。(右写真:ヨセミテ渓谷に遊ぶラッセル一家、1940年)しかし、反キリスト教徒で自由恋愛論者のラッセルは、キリスト教界にとっては、風紀を乱す不貞の輩であり、ニューヨーク市立大学に通う女性の親(キリスト教徒)をけしかけ、ニューヨーク市の高等教育局を被告に、ラッセルの任命を取り消すようにとの訴訟を起こさせた。ラッセルは論理学を教えることになっており、女子生徒の親が心配するようなことはなかったが、そのようなことは彼らには関係なく、ラッセルは「不道徳な」人間であるので「教育者としてふさわしくない」ということであった。

 学問の自由を守るためにジョン・デューイやアインシュタイン、その他、米国の多くの著名な大学関係者が立ち上がったが、当時の米国社会は遅れており、また、ラッセルは直接の被告ではないことから抗弁の機会が与えられず、被告であるニューヨーク市の高等教育局は裁判にまけ、ラッセルの招聘は取りやめとなってしまった。
こ れが有名なバートランド・ラッセル事件 The Bertrand Russell Case であった。詳しい内容を知りたい方は以下のページをお読みください。
http://russell-j.com/cool/Bertrand_Russell-Case.html