アドホック日記(2004年4月7日) - 人間原理から輪廻転生へ
日記索引
* 2004年3月27日「第2回人文死生学研究会」(於日本大学文理学部)にて配布した発表メモを若干修正したもの(三浦俊彦)
▲▼説明としての「強い人間原理」のための8要請▲▼
1★確率の普遍性の要請:宇宙全体の初期条件や法則の実現に確率が関与している。
2★偶然性の要請:必然的に初期条件や法則等を決定する「究極理論」は存在しない。
3★観測者の希少性の要請:観測者のいる宇宙は、物理的パラメータ空間内の極小領域に局限されている。
4★特殊性の要請:観測者のいる宇宙は、実現した宇宙であるという性格付けとは独立した特殊な意義を持つ。言い換えれば、観測者という性質は、観測者自身にとっての意義とは別個の、客観的に特殊な意義を持つ。
5★意識の論理的supervenienceの要請:観測者を成立させる意識は、人間の脳のような特定の種類の物理系の上に論理的にsuperveneする。
6★非目的論の要請:この宇宙は目的論的なデザインによって成り立ってはいない。
7★多宇宙の要請:初期条件、法則、非決定論的道筋などが互いに異なる多数の宇宙が実際に(物理的に)実在している。
8★逆ギャンブラーの要請:多宇宙仮説は、もし正しければ、ファインチューニングに対する説明になっている。つまり、多宇宙の実在に条件づけられると、この宇宙がファインチューニングされている確率は上がる。したがって逆に、ファインチューニングという事実が、多宇宙の実在に対する証拠となっている。
▼▲3つの形而上学的前提▲▼
◆唯物論は正しい。(オッカムの剃刀により)
◆刹那転生観は採用できない。(唯物論的な意識のメカニズムにより)
◆時間の流れは実在し、時間的に共存する複数の観測者は同一の「私」であることはできない。(時間と空間の非対称性)
▼▲考察▼▲
●自然科学は観測者一般の実現を問題とし、独我論的「私」の実現は問題にしない。
これは事実上、「観測選択効果」+「逆観測選択効果」に相当する。
●第1の分類:(独我論的)「私」が予在するか否か
観測者は誰もが、自己を「私」として認識せざるをえない、という意味でのトリビアルな「私」で済ませる場合……「人間原理」の基本前提(タイプ的制限のないSSA)
観測者のうち特定の一個のみが「私」であるという(独我論的)「私」の実現への説明が必要とされる場合……多宇宙説vs「逆ギャンブラーの誤謬」
●第2の分類:独我論的「私」の実現の仕方(SSAかSIAか)
どのような宇宙が実現するか、その宇宙の中にどのような観測者が、何人くらい誕生するか、とは独立に、(独我論的)「私」が(非物理的に)予在していると仮定しよう。
SSA:その「私」が、具体的な観測者のうち誰に宿りそうかを考える。←平凡の原理
SIA:その「私」が、そもそも観測者に宿りそうかどうかを考える。←指示の因果説
ダーツの例:ボード上の3領域◇1特別な点(または予め指定した点)
◇2観測者の範囲(1を含む)
◇3非観測者の範囲
(SSAでは先に的が描かれており、2に当たった場合のみ「観測」によってピックアップされる。SIAでは3に当たった場合も勘定に入れる、または投擲の後でランダムに的が描かれる)
「意識の超難問」は、命中地点を中心に新たに第2の的を描くようなもの(渡辺,2004,p.225は、2つの的を同一視する誤謬)。
SSAの場合、クオリア問題に還元され(領域2の存在の不思議)、SIAの場合、「私の存在そのもの」の問題に還元される(領域2に当たった不思議)。
「意識の超難問」の思惟原点を単一の心身(命中点)から環境全体(ボード全体)へ広げると、「なぜ私は〈fine-tuningされたこの宇宙〉にいるのか?」という問題となる。SSAでは、「私」がいる宇宙が〈この宇宙〉として定義されるので、「私」と〈この宇宙〉との結びつきは必然である。SIAでは、「私」と〈この宇宙〉のfine-tuningとは独立なので、この問いが一見成立するように見える。
●第3の分類:「私」の性質(SSAを制限/SIAを緩和するか否か)
トークン的同定にもとづくSIAのもとでは、「私」が現に観測者として存在する事実がきわめて不可解なものになる。一宇宙であれ多宇宙であれ。
タイプ的同定によって緩和されたSIA(タイプ的同定によって制限されたSSA)のもとでは、少なくとも多宇宙、十全には様相実在論が必要となる。
タイプ的制限のないSSAのもとでは、観測者が実現しさえすればよい。多宇宙で十分。
●第4の分類:「私」は、〈この宇宙〉のどこに、いつ実現するのか
a.SIAのもとでは、「私」が「どこに」生ずるべきかは必然的に指定され、「どこかに」生ずることは偶然的(定点への観測者実現の偶然性)。
b.タイプ的制限付きのSSAのもとでは、「私」が「どこに」生ずるかは可能的選択肢の中で指定(複数?)され、「どこかに」生ずることは偶然的(タイプ実現の偶然性)。
c.タイプ的制限のないSSAのもとでは、「私」が「どこに」生ずるかはランダム、「どこかに」生ずることは必然的。
d.SIAのもとでは、「私」が「いつ」生ずるべきかは必然的に指定され、「いつかは」生ずることは偶然的。
e.タイプ的制限付きのSSAのもとでは、「私」が「いつ」生ずるかは可能的選択肢の中で指定(複数?)され、「いつかは」生ずることは偶然的。
f.タイプ的制限のないSSAのもとでは、「私」が「いつ」生ずるかはランダム、「いつかは」生ずることは必然的。
●第5の分類:上のfについて/決定論的宇宙と非決定論的宇宙
△一宇宙の場合、唯一の宇宙史の中で観測者の存在する全期間を、結果として生じた世代(「刹那」でもよい)ごとに区切り、M1,M2,M3,M4,M5,……としよう。これらは多宇宙モデルの各々の宇宙とは違って、M1にM2が依存し、M2にM3が依存し……といった非対称的なシステムを形成する。M1が確実にM2を生み出し、M2が確実にM3を生み出し……という決定論的システムがないと、M1にまだ生じていない「私」が、いつか必ず生じる保証は得られなくなる。「まだ「私」が実現しないうちに宇宙が(観測者の歴史が)終了する」ことがないよう、決定論が要請される(どの時点でも「私」実現が必然化されるために)。この世界観は、より多くの観測者が生ずればそれだけ(独我論的)「私」が生じやすくなるという帰結を伴い、SIAに帰着してしまう。
多宇宙の場合、相互独立な諸因果系の中から「私」が実現した瞬間の宇宙が観測選択されるので、そうして選ばれた〈この宇宙〉内ではたまたま決定論と非決定論のどちらが正しくとも「私」の誕生には支障ない♯。
注♯:任意の有限のnについて、観測者の歴史がMnまでに終了している、ということがすべての宇宙で生じている確率はきわめて小さいので(様相実在論では確率0)、私が現に生じているMm(ただしm≦n)までの間が非決定論的であったとしても、観測者の存続を結果的に実現してきた不特定の宇宙内のMmを選んで「私」が生ずることができる。
△〈この宇宙〉が非決定論的である場合
f+一宇宙+非決定論のもとでは、「「私」が実現する番がめぐってくるまで宇宙が(観測者の歴史が)続いた」ことは偶然になる。可能な「私」の数と実現した観測者数の比によっては極度に低い確率となりうる。よって、fのもとでは、多宇宙か、決定論か、いずれかが正しくなければならない。
△多宇宙、決定論のいずれも正しくない場合
fを変更せねばならない。「私」が「いつ」生ずるかはランダムではありえない。タイプ的制限なしのSSAのもとでは、おそらく「私」が「いつでも」生じており、それゆえに「いつかは」生ずることが必然的と見なせる。
こうして、SSA+一宇宙+非決定論のもとでは、M1にまだ生じていない「私」というものはない。
●第6の分類:「私」の減少モデルと一定数モデル
上述のモデルは、厳密に言うと「私」が「いつでも」生じているというモデルではなく、M1にすべての「私」が出揃っていることのみを要求している。M1より後、すべての「私」が恒常的に存在しつづけるべき必然性はない。SSAは「私」が減少する世界モデルと整合的である。こうして、「一方向的輪廻転生観」が得られる。「私」は、M1と現在に存在しているのだが、その途中、および、未来においては、存在する保証はない。
ただし、現在がランダムな時点であると前提すれば、「私」は過去および未来にも恒常的に存在しつづけると考えるのが妥当である。
●輪廻転生論で必ず問題になる、人口増加について
宇宙の歴史において、初期には観測者の数が少なく、しだいに増加すると想像できる。このとき、M1にすべての「私」が出揃っていながら、新しい「私」が生じてこない、という食い違いをいかに解決するか?
これは次のモデルAで解決できる。物理的同一観測者内に多数の(ひょっとすると無限の)「私」が対応しており、その「私」らが当の同一観測者の死とともに次の世代の物理的観測者らへと分岐融合しつつ乗り移ってゆく、という多対一対応モデルである。
内属する「私」の多寡によって、物理的観測者の「内省的自己意識」の強弱が決まるモデルBによってモデルAを補強できるだろう。輪廻転生、自我体験(「意識の超難問」を含む)、人間原理などに興味を持つ観測者、自我意識の明確な観測者は、非内省的な観測者よりも、多くの「私」を含んでいると見ることができる。だからこそ、SSAにより、「私」たちはこうして、輪廻転生などを論じているのである。「私」が非哲学的な人間として生まれる確率は、低かったはずだ。(cf.グルジエフ)
これは、SSAを一般化した原理(GSSA)として定式化できる。すなわち、ランダムサンプリングの原理は自我意識とは独立した性質にのみ当てはめられるとする。
●GSSA「私たちが自らを見出すのは、自我意識の強い、そして自我意識とは独立した諸性質に関しては平凡な部類に属する、そういう観測者の、しかも自我覚醒の瞬間である確率が高い」
GSSAは、量子論の波動方程式に似て、独我論的「私」の灯る場所を確率的に決定する。
GSSAは、自己確証的な原理である。なぜなら、GSSAの統計的検証のために「私」がどこにいるかをサンプリングしたとき、その「私」自身は常にGSSAを確証する意識状態にあるはずだから。
暫定的結論◆(常識的形而上学のもとでの)輪廻転生の十分条件
1◇予在する「私」が同定できる。
2◇タイプ的制限のないSSAが妥当である(「私」の誕生は必然的である)
3◇因果系としての宇宙は唯一である※
4◇非決定論が正しい※
5◇現在はランダムな時刻である※
6◇物理的同一観測者内に多数の主体が並存している。(1◇と人口変動により)
※3◇4◇5◇は必要条件ではない。概念的命題である1◇2◇6◇という必要条件に、経験的検証のできる3◇4◇5◇が加わって、輪廻転生の十分条件となる。
「3つの形而上学的前提」∧1◇~6◇ならば、輪廻転生は真である。
●輪廻転生の、倫理的含意(例)(「3つの形而上学的前提」∧1◇~6◇が正しい場合)
1.妊娠中絶は悪ではない。
2.自殺は悪ではない。
3.不幸な人間を殺すことも悪ではない。
4.2,3は、功利主義的な観点から修正を余儀なくされることがある。とくに3は、当人以外の人間を悲しませるとか、不幸でない人間にまで「慈悲殺」が及ぼされる乱用の可能性が排除できない場合、2.3.は倫理的に制限されねばならない。
5.1~4は、「なぜ人を殺してはいけないのか?」および阿呆理詰日記960との相乗考察を要求する。
6.刹那転生観では、不幸な人間の死を利己的な意味で望むべし。
7.本稿の輪廻転生観では、不幸な人間の死を利他的な意味で望むべし。
最終結論■:「1◇~6◇のいずれかが誤りである」が確からしい。
たとえば、常識的形而上学のもとではSSAは多宇宙を含意するので、2◇と3◇は両立しがたく、その意味では輪廻転生は必ずしも真とはならない。
もともと「仮定」として議論してきた1◇を放棄すれば、輪廻転生の実質的部分を必然化し、すべて解決するかもしれない。
2◇は匿名の視点の確率分布に置き換えられ、3◇の否定が視点の実在を保証し、それだけで4◇以下は不要となる。「3つの形而上学的前提」も、「私」なしで成立しうる。結局のところ、1◇を放棄する非人称的な自然科学的描像こそが、すでに遍在転生観を先取りしていたのではないだろうか? 人間原理が、無人称的観測者を設定するだけで「タイプ的制限なしのSSA」(2◇)に自動的にコミットしていたことを考え合わせると、これは尤もらしい。