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バートランド・ラッセル『幸福論』を訳し終えて - アドホック・エッセイ&備忘録 (2006年08月09日)

* バートランド・ラッセル 幸福論 (松下彰良 訳)

 ラッセルの The Conquest of Happiness, 1930 については、安藤貞雄氏によるすぐれた訳(岩波文庫版)があるにもかかわらず、このホームページに松下訳を連載するにいたった理由については、松下訳の最初に書いたので、それについてはあらためて書かないが、邦訳をし終わって、次のような感想を持った。常識的なことばかりかもしれないが、列記すると、

(1)まだまだ自分も勉強が足りない(これは当たり前なので、詳細は省略)
(2)英語のできる人は、すぐれた翻訳をするとは限らない。その原因としては、
 1)英語ができても、日本語が必ずしもできるとは限らない。
 2)日本語ができても、古い日本語を使っていて、若い人の言語感覚にあわない場合がある。
 3)一般常識・知識は時代によって異なるが、古い世代は、現代の若い世代がもっている一般常識・知識を持っていないこともあるし、またその逆もある。
 4)現在では、インターネットという優れた検索ツール(ただし間違いも非常に多い)が存在するが、昔はそのような便利なものがなく、調査のための参考図書が限られていた。従って、時間の関係で、あるところまで調べてわからなければ、あきらめてあいまいなまま訳してしまうケースも少なくなかった?。
 5)'意訳'のしすぎ、あるいは直訳すぎること。正確かもしれないが意味が通らない訳文(直訳しすぎ)より、ニュアンスは少し違うかもしれないが理解できる訳文(意訳)の方がベターである。しかし、ニュアンスが大事だと思う場合は、意訳のしすぎには抵抗感を覚える。
 6)論理的思考の不十分さ。論理的に考えればそのように訳せないはずなのに、論理的思考が甘いために、平気で非常識な訳をしてしまうことがある。
 7)単純な不注意
 8)出版予定期日にせかされ、翻訳作業のための時間が余りとれず、見切り発車(出版)してしまう。

 安藤訳から、上記にあてはまるものを、少しだけ、以下紹介してみたい。もちろん、私の誤解かもしれないので、その場合は(掲示板あるいは、メールにて)ご教授いただきたい。

 5)意訳のしすぎと思われる例(その1)
(However that may be, the prodigious success of these modern dinosaurs, who, like their prehistoric prototypes, prefer power to intelligence, is causing them to be universally imitated./しかしながら、こういう、現代の恐竜とも言うべき(意志ばかり強固な)人種は、前史時代のその原型と同様に、知性よりも(権)力を好み、驚異的な大成功を収めたので、万人の模倣するところとなっている。)
★安藤貞雄氏は、「現代の恐竜とも言うべき'大富豪たち'は、・・・。」と訳されている。しかし、modern dinosaurs というのは、感性や知性が乏しく、「意志だけ強固な」人種(政治家その他、多様な競争の哲学の信奉者一般)を指していると思われ、「大富豪」というのは'意訳のしすぎ'ではないだろうか。

 (その2)
(What might be called hygiene of the nerves has been much too little studied. /神経衛生学と呼んでよいようなものは、従来、ほとんどと言ってよいほど研究されてこなかった。
★安藤氏は、hygiene of the nerves を「神経の生理学」(neurophysiology)と訳されているが、ラッセルが考えているのは、純理論的な研究(神経生理学)というよりは、臨床科学的な、治療法も含めた「精神衛生学」のようなものであろうか。因みに、神経生理学の研究は、米国において1930年代後半から始まったとのことである。本書が出たのは1930年であることに注意。

 6)論理的思考が不十分と思われる例
(People could not read or write, they had only candles to give them light after dark, the smoke of their one fire filled the only room that was not bitterly cold./人びとは、読み書きができなかった。暗くなってからのあかりは、ろうそくしかなかった。ひどく寒くはない部屋は一つしかなく、その部屋はその部屋にしかない暖炉の火の煙が充満していた。)
★安藤貞雄訳では、「一つの炉端の火の煙が、ひどく寒くはない一つっきりの部屋に充満していた。」となっている。これでは部屋が1つしかないようにもとられかねないので、松下訳の方がより適訳だと思われる。

 7)単純な不注意と思われる例
(It is many centuries since the little boys of London town could enjoy such pleasures as this rhyme suggests, /ロンドンの下町の少年たちがこの童謡が示しているような'楽しみ'を享受できたのは、何世紀も前のことである。
★安藤氏は、「ロンドン市の男の子」と訳されているが、これでは'シテイ(ロンドン旧市部)在住の子供'ととられる恐れがある。あくまでも、'タウン'=下町の子供を指しているのではないか。(2006.08.09)