バートランド・ラッセルのポータルサイト

「ラッセル教授は、講演「文明の再建」で何を語ったか」

出典:『読売新聞』1921年(大正10年)7月31日(日曜付録)

(関連文献)
1. Bertrand Russell at Keio University, July 1921, by William Snell
2.宮本盛太郎(著)『来日したイギリス人-ウェッブ夫妻、L.ディキンスン、B.ラッセル』

慶應義塾大学大講堂  (右写真:1921年7月28日、バートランド・ラッセルが3000人以上の聴衆の前で講演を行った慶應義塾大学大講堂。2000人分の席しかないようなので、「立ち見」がかなりあったということか。関東大震災では一部損壊ですんだが、1945年5月の東京大空襲で全焼)


 (1)
 「文明の再建」、是が今回の私の演題であるが、議論を進めるに先立って私は、「シヴィライゼーション(civilization)」の概念から説明して掛からねばならない。文明とは何であるか。普通、文明といえば大概の人は直ぐ、機械工業の発達だとか、或いは大砲軍艦等の軍需品の充足などを連想するだろうが、私の言うところの文明はそうした物質的方面に重きを置くものではなく、寧ろその精神的方面に重きを置くものである。即ち、私の解釈に依れば、文明とは機械工業の発達を意味せず、その代わりに文藝科学の発達を意味し、軍需品の充足を目的とせず、その代わりに個人の向上、社会の幸福を目的とするところのものである。文明の物質的な方面は、既に現代人によって完成されたといっても差し支えない。然るにかかわらず?現代人は尚もその足跡を追おうとし、甚だしきに至ってはこれに対して全く隷属的な態度をさえ示している。我々は今この誤った軌跡から脱却して前述の如き精神的な方面に踏み出さなければならない。斯くあってこそ初めて我々は、現代の「文明」に絶大の勝ちを附与する事が出来るであろう。

 (2)
来日したバートランド・ラッセル  斯く文明の概念を二様に分けて見る時、曾て機械の進歩発達をその目的とした旧文明の概念は、一九一四年に勃発した今次世界大戦と共に、全く崩壊すべき運命に立ちいたった。そうして人々は戦争を続けながらも、尚かつ将来、善き生活状態に入るべきことを予期して疑わなかった。然るにその現実はどうであろうか。人々の猜忌(ママ)、憎悪、闘争は、大戦の終わった今日に於いても、依然としてその影を潜めず、国際的の衝突は機会のある毎に切迫して来ているといったような有様で、こうした以前にも増して凶悪な報道がその日その日の新聞を通じて明瞭に窺われるではないか? 何という浅ましい現実ではないか? 折角我々が努力して無くなしかけた力が、再び我等の間に現れて、而もそれが日毎に強められ、深められて行こうとは! 其処に我々の解決すべき当面の問題が横たわっているのである。


ラッセルの言葉366
 (3)
 若し我々にして今のうちに此の問題を解決することがなかったならば、我々は近き将来に於いて更に一層怖るべき事実に面接することが避けがたいであろう。若し現在の調子で人々の憎悪が此の儘深められて行き、同時に殺戮器具の製造がこれ以上巧妙になって行ったならば、その結果は果たしてどうなる事であろう? 恐らくそれは互いに身を滅ぼすこと以外に何物をもなさないであろう。此処に於いてか我々は、我々の文明のうちに更に一つの新しい道を見いださなければならない。それは即ち、現在の経済組織を改造することであり、同時に我々の倫理道徳を新しい形のうちに生かすことであらねばならない。

 (4)
 現代と前の時代との最も顕著なる差別相は、一に繋がって工業主義(industrialism)に在る。工業主義は即ち近代の文明に一大革命を与えたところの偉大な力であって、それは人生に向かって多くの新しい進歩発達を示したが、それが今日では最早究極まで行き着いて、それが為に人間の生活まで却って不幸なものにされつつある。そうして此の工業主義と並行し、あい関連して発達して来たのが、取りも直さず近代の私有財産制度国家主義とである。然しこれらの文明的要素は、今我等に何の寄与するところがあるかと問えば、それは人類の幸福ではなくして寧ろ不幸である事は、現在我々の実生活が最も明らかに証明するであろう。我々は最初は此等の要素を我等自身の手で創ったにも関わらず、今日では其等の要素に従属すべく余儀なくされている。矛盾も甚だしいものではないか。

 (5)
 所でどうしたら我々は此等の束縛から離脱する事が出来るだろうかというに、私は二つの立脚点からする事が出来ると信じている。一つは即ち経済的の見地から、もう一つは即ち、道徳的見地からである。何故私が経済的の見地を最初に持ち出したかというに、それは要するに人間生活というものが根本的に経済組織の上に建てられたものであるからである。それは今次世界大戦が一種の経済的利権の争奪戦であった事によっても頷かれるであろうと思うが、今にして我々はこの、年と共に大規模になり掛けている戦争--而も此の次に戦争が起こるものと仮定して、それが今次大戦より更に大規模でなかろうことを誰が保証し得ようぞ--を避ける為に一つの新しい途を見い出さなかったならば、その結果は果たしてどんなにか成り行くことであろうか。その意味に於いて我々は、将来に於ける戦争の禍根を排除する為に、経済的の見地から先ず現代の工業主義、資本主義に向かって戦わなければならぬ立場に起っている。

 (6)
 然らば此の当面の問題は、何によってまた如何に解決さるべきであるか? 私は素より(ママ)予言者としての力を持たない。また此の際徒に予言することを好まない。けれども此の問題が曾て大統領ウィルソンの提唱に?ったリベラリズムに依って解決されようとは信じない。また此等の禍根が今回大統領ハーディングが関係している太平洋会議によって排除されようとも信じない。我々はそれらの提案よりもっと根本的な革命を必要とする。若し仮に予言と名づけ得られるなら、今私がこれだけの事をいったとしても、夫れは敢えて軽率な予言でなかろうと私は信ずる。

 (7)
 我々が古い時代から継承して来たところのものに、私有財産制度というものがある。この一種の経済的本能が国家の上に働く時に、それは国家の工業主義という形を取って現れる。換言すれば、国家か資本家的態度を取る事である。仮に鉄道を例に取って見るがいい。資本家としての国家は鉄道を所有している。然るに線路は食うわけにはいかないから、鉄道それ自体からは国家が何等の獲るところもない筈だが、唯だそれを所有する事に依ってのみ、国家は資本家としての絶大な力を具備する事になるのである。かように国家の工業主義、資本主義は、昔の私有財産制度の拡大されたものであるが、その発達には凡そ二つの段階があった。即ち曾ては市場の競争に過ぎなかったものが、現在に於いてはそれが原料の競争まで拡張されて来ている。而して今や、その競争が更に展開して、国際的の産業競争となっている事実もまた我々は見逃す事が出来まい。

 (8)
 此の国家の私有財産に対する獲得欲と、それから起こるところの優越感とは、旧い意味での愛国者、即ち現在の国家主義者たちによって多分に蔽せられている本能的な感情である。それが自国民に対する場合はまだしもだが、他国民に対する場合は極めて露骨に現示されて、而も誰も怪しまない理由は何故であるか。のみならず、こうした感情が教育によって養成されているのだから堪らない。例えば私の生国である英国では、英国が世界中で最も良い国だと教えられる。仏蘭西ではやはり仏蘭西が世界中で最も良い国だと教えられている。深くは知らないが、恐らく日本の学生諸君も、日本が世界で一番良い国だと教えられていることだろう。こうした教育は、一体我々の単なる獲得欲や所有欲や優越感の如き古い古い面からも恥じ入るべき本能性を助長する以外に、如何なる効果を我々の子弟に向かってもたらすであろうか


ラッセル英単語・熟語1500
 (9)
 勝利を誇る連合国は、たとえ独墺国を征服し得たにしても、それで世界の戦争が熄んだ(=終息した)ものと思ってはならない。此の我々が今目前に賭るところの原料の争奪は、若し此の儘にして進むならば、必ずや第二の戦争を生み、その戦争が以前にも増して激烈なものであろう事を知らねばならない。また知っている筈である。而して此の当面の事実から逃れる為に、我等は先ず世界の平和を望まなければならない。資本主義を倒して人類を幸福な境涯に導かねばならぬのである。其処で私は、「文明の再建」の一手段として、世界共産主義(松下注:当時ラッセルが使った communism は現在では、「社会主義」にあたる。参照「The Practice and Theory of Bolshevism の第2版への序文」を提唱する。それは即ち、労働の公平な分配を意味し、原料を国際的管理の下に置かしめようというのである。但しこれは自由と正義の精神によってのみ成し遂げられるところのものである。

 (10)
 然し乍ら人間の競争心というものはかなり古く、我々の心に根を下ろした本能で、到底一朝一夕でこれを排除することは不可能である。またそれを排除する事によって、私は各個人の才能を低下せしめようと要求するものではない。否、それと反対に、各個人は己の天才を他人に分け与えることに依って、才能の貧しき者を出来るだけ引き揚げ、其の人の生活をより幸福ならしめんことを希望するものである。即ち権利の分配という事が問題となって来る。今それに就いて特に日本人にとって卑近な例を挙げて見るならば、日本人は従来、男女間に非常な差別が置かれてあった。而も諸君の正義と自由との観念は、漸次その差別を撤廃しつつあるではないか。また日本は東洋諸国を代表して白人の専横に対抗している。私は白人の立場からそれに対して満腔の同情を表するものである。何故ならば真の正義は、個人間に平等を要求すると同様に、人種間にも平等を要求するのが当然だからである。然し乍ら自国の権利を主張するばかりが正義の途ではなくて、其の権利を他国民にも分け与える事が正義であることを、日本人は反省しているだろうか?

 (11)
 そういった次第で、私は世界共産主義(注:「社会主義」と訳さないと誤解が生じる)の実現を信じるものであるが、その為には永い永い教育の努力と、幾多の国々における幾度かの(暴力革命を肯定しているわけではないことに注意)を必要とするものであって、これが単に一場の説教に依って実現さるべきものでない事は、分かり切った話である。そうかと言って資本家は到底、自発的に革命を敢えてするものでは無いのだから、我々はまさる努力を以て機会のある毎に、これが実現--即ち経済組織の革命を実現しなければならない。斯くて我々は、国際的憎悪の脅威を排除すべく、労働階級の共同責任と一致協力とを竢つより外に途がない。そうして国家の束縛を一掃した上で、世界を一つのものとみなすところの新しい感情のうちに生きなければならないのである。(速記に在らず。K.S.生・筆記
(参考)「東京朝日新聞」1921年7月29日付その他にも関連記事あり(省略)