宮本盛太郎『来日したイギリス人-ウェッブ夫妻、L.ディキンスン、バートランド・ラッセル』第3章-冒頭
* 宮本盛太郎(著)『来日したイギリス人-ウェッブ夫妻、L.ディキンスン、バートランド・ラッセル』(木鐸社、1989年3月、210 pp.)第3章「ラッセル」冒頭
1.ラッセルの来日と改造社
横関愛造の証言(1)元『改造』編集長・横関愛造は、先述の「日本に来たラッセル卿」で、こう証言している。1920(大正9)年9月に、中国の雑誌『改造』(松下注:もちろん日本の『改造』とは別物)の主宰者蒋方震(百里)氏から、つぎのような連絡があった。バートランド・ラッセル教授が、今度北京大学の招きで約半年間、大学の講壇に立たれることになった。すでにイギリスを出発されて上海への船中にあるが、この機会に、日本の大学で招待される所はないだろうか、と。
私たちは、好機逸すべからずと、2、3の大学にあたったが、社会改造論・非戦論などの看板を掲げた学者なので、日本領土への上陸さえ許可されないだろうという見通しから、いずれの大学でも敬遠された。(右下写真は、慶應義塾大学大講堂。ラッセルは、1921年7月28日夜、「文明の再建」という演題で、3,000人にのぼる大聴衆を前に1時間ほど講演(講演内容は,雑誌『改造』に掲載)。なお、大講堂は、1945年5月の東京大空襲で焼失した。)
改造社同人で招待しよう、創刊後1年半の一雑誌社がそんな企てをしても、ラッセル教授は承諾してはくれないかもしれないが、この機会をのがしては再び実現することはむずかしい、ということになり、直ちに北京の蒋氏に電報を打った。
蒋氏から返電があり、喜んで改造杜の申し入れを取り次ぐ、われわれもむしろ大学よりは改造杜の招待を希望する、とのことだった。ラッセル教授が上海に着いたという外電を新聞でみた日に、蒋氏から電報で、教授は承知してくれそうだから、詳しいスケジュールを知らせろ、といってきた。われわれは喜び、同人を代表して私が北京へ行き、教授と会った。教授は、開口一番、日本の政府は私の入国を許すかどうか、といわれた。私はこう答えた。格別日本政府の意向を確かめてきたのではないから、その辺は何ともお答えしかねるが、そんな事を心配していては、この計画はお願いできなかったでしょう。日本には「あたって砕けろ」という諺があります。突きあたってみると案外開ける道があるものだ、という意味です、と。中国の人2人が通訳してくれると、了解したらしい教授は、気軽そうな表情になり、わかりました、日本に行きましょう、来年北京大学の講演がすみ次第、と快諾された。・・・後略・・・。
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