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バートランド・ラッセル『教育と社会体制』- 訳者(鈴木祥蔵)あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著),鈴木祥蔵(訳) 『教育と社会体制』(黎明書房,1952年/明治図書,1960年9月。208pp.)
* 原著:Education and the Social Order, 1932.
* (故)鈴木祥蔵氏略歴
* (参考)鈴木祥蔵「自由な世界人の教育」

 訳者あとがき; 鈴木祥蔵「バートランド・ラッセルの教育思想とその背景」

 バートランド・ラッセルは1872年に生れ、現在(1960年)88歳になる数学者・哲学者乃至社会思想家として重要な人物であるばかりでなく、極めて実践的な平和運動家として活躍中である。1950年にはノーベル賞を受賞し、原水爆の実験とその使用が人類を滅亡に導くものであることを力説し、両体制の巨頭に対してだけでなく、全人類に向って戦争防止のための具体策を提案し、国際的な運動を組織し、その先頭に立ってたたかっている一人である。
 ラッセルの平和主義思想と、教育思想とは密接な関係をもっている。現在われわれはそこから多くのものを学びとることができるのである。

 ラッセルの教育に関する著書は、他に『教育論』(On Education, especially in early childhood. London; Allen & Unwin Ltd., 1926)がある。当初、数学と論理学に打ちこんだ彼が、次第に社会問題に関心を示し、社会の改造と進歩と平和のために闘いだしたのは、第1次世界戦争の狂気をまのあたりにみてからである。彼自身、「わたくしの生涯は第1次大戦勃発の前と後という2つの時期にわかれる。この戦争はわたくしから多くの偏見を振り落し、あらたに多くの基本問題について考えさせた」と回想している。その頃からすでに彼の目は絶えず教育に注がれている。当時書かれた『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction. London; George Allen & Unwin Ltd., 1916)には、特に教育に1章がさかれているし、1920年、革命後間もないソヴエトを訪問し、当時の妻ドーラ・ラッセルと共著の『産業文明の前途』(The Prospects of Industrial Civlization, i collaboration with Dora Russell, 1923)にも教育の一章がさかれている(松下注:共著といっても、ドラが書いたのは1章のみであり、離婚後に出された版では、削除されている。)
 この頃ラッセルが教育の問題に関心を示すようになった原因に、2人の子どもをもつに至ったことを考えねばならないということは彼自身が語っているところからも明らかである。またこの頃に彼と彼の妻とが、私立学校(松下注:Beacon Hill School のこと)を創設し、これを数年間に渡って経営したという事実もあるらしい。(松下注:そうではなく、自分たちの子どもの教育に適切な学校がなかったために、自分たちで'実験学校'を創設)
 どちらかというと、2人の子ども(松下注:写真は1927年に撮影されたもので、長男 John と 長女 Kate(Katherine)/出典: R. Clark's B. Russell and His World, 1981)をもち、私立の学校を経営したというような、私的な関心とフロイドの深層心理学からの影響と彼の本来の自由主義とが結びついた教育理論が『教育論』により強く表現されている。そして、社会改造の理論や、コミュニズムに対する彼の評価、平和への熱望、世界政府の構想などとより深く結びついた教育論がこの『教育と社会体制』に展開されているとみることができるであろう。

 この『教育と社会体制』には、幾つかの明確なラッセルの立場(イズム)が示されている。この立場は、反動的な教育政策に直面しているわれわれとしても充分に批判的に考察してみることを必要とする立場である。

 まず第1に問題になるのは、ラッセルの「個人主義」である。この書の第1章でその立場がよく説明されている。第1次世界大戦が勃発したとき、この戦争が「プレスティージの戦争」(wars of prestige)であるという理由でこれに反対し、徴兵反対同盟の委員として活動し不穏文書を発表したというかどで彼は投獄されたことがある。彼が絶対主義や全体主義の危険に対して鋭く反対するのは、この個人主義の立場に立ってである。彼が好んで用いる「自尊心」「自己決定」の重要さは強調してしすぎるということはないと思う。彼は「市民」「とりまかれたもの」であってはならないという。この「個人」と「市民」との調和の問題は、この中心の問題の1つであることは、最後の章でまたこの問題をとりあげていることからもわかる。しかし一方で集団の問題を「個人」を圧迫するものと考えてしまっている彼の考え方には問題が残るのである。
 彼の祖父はイギリスの首相を2度つとめた人であり、彼の父は子爵であった。彼のモナドとしての個人の尊重には、ある種の貴族の香りがあるのはそのためであろう。彼は資本主義社会の基礎にある、土地と企業の私有には反対するという意味で社会主義の立場に立つ、一方でマルキシズムにも反対する。そこから世界政府の構想がでてくるのであるが、そこではじめて彼の個人が正当に位置づけられてくる。つまり良き個人の予定的に調和する社会が頭の中に描かれているのである。そこでまたはじめて正しい教育(よき個人をつくり上げるための)が可能になると考えているわけである。この立場は一歩誤るとユートピアに陥る危険性をもっている。しかしそのために彼がきびしく批判する'国家主義'の教育への批判、教育の官僚統制に対する批判などは、充分に尊重されねばならないと思う。と同時に、彼の主張する「よき個人」が、ある種の集団なしには実験不可能であるということを教育の問題として、さらに適格に考察する必要があるのではないかと思う。

 第2は、彼の科学主義乃至は論理主義的な立場である。
 1つのオーソドックスを受け入れてしまうことは、知性を墓場にほうむりさることだと決論する言葉に、この立場がよく表現されている。科学がつねに迷信や常識をうち破ってきたことを思うと、事実に即して判断するということが、如何に必要であるかがわかるのである。このような立場からいうと、真理とは、あくまでも経験的な'特殊'な真理なのであって、単に近似的なものにすぎない。つまり絶対というごときことはないということになる。本書の中でも彼は、「最後的断定をしないということが、科学的精神の粋である」(Absence of finality is of the essence of the scientific spirit)といっている。それ故に科学者の信念は仮設的(松下注:仮説的の誤植か?)でなければならないし、ドグマティックであってはならないと説くわけである。
 ところで彼は一方で、やはり絶対的に一般的な命題のあることを認めるのである。このような命題は純粋に論理的な命題なのであって、ここにアプリオリを認めようとするわけである。彼の所謂「一般的な命題」はそれであって、この一般的真理は、彼の中性的一元論(Neutral Monism)の立場からでてくるのである(松下注:neutral monism は、あくまでもラッセルの1920年代の考え方)
 彼はこのような立場からプラグマチズムに反対すると同時にマルキシズムに反対することになる。そしてデューイを批判すると同時にマルキシズムをドグマティックであると非難する。
 彼は弁証法的な立場をとらない。彼の論理と科学とはあくまでも形式論理的なのであって、むしろ弁証法を危険視するのである。その点、例えばマルキシズムは、すべてのことがらを経済的な原因に結びつけるという非難をしながら、本書の第14章'教育と経済'においては、教育の階級的な性格を経済的な基礎から分析し、「共産主義下の教育が」資本主義をつづける限りでの西欧諸国における教育よりはすぐれた教育をなしうるし、「よりよき男女をつくりだしうると考えるのは正しい」と結論している(松下注:この引用は誤解を与えやすい。ラッセルが The Practice and Theory of Bolshevism の第2版(1948年)へのノートにおいて注意を喚起しているように、ここでの communism は socialism に読み替える必要がある。)。弁証法の論理の評価に関しては特にさらに検討がなさるべきだとわたくしは思う。

 第3に、彼の平和主義の立場である。彼は第1次大戦以来、戦争の危険について警告をしつづけているが第2次大戦の際には、ファシズムに反対する理由から、そのたたかいを支持した。その点で種々の批判があるけれども、事実にもとづいて判断するという立場から平和への志向は一貫してなされつづけたとみることも誤りではないと思う。第2次大戦の終結の際のアメリカの原爆使用をみるに及んで、彼の平和への熱意と努力とはさらにきびしいものとなった。彼は、戦争の原因が資本主義に内在することを認めながら、なお人間の心理的諸要因が戦争への原因となりうることを主張するのである。そこから彼の教育への期待は大きくなるのである。
 そして資本主義国の国家主義に対するきびしい批判をして、「虚偽の歴史、虚偽の政治、虚偽の経済が」国家の手で教えられている教育を一日も早くやめねばならないと主張する。一方、心理的感情的抑圧を徹底的に教育から排除すべきことをすすめている。このことをあらゆる国々で実践的に解決してゆこうとすれば、ラッセルの希望するような世界政府が学者を集めて、世界歴史の教科書をつくりあげるということが困難な現状では、相当の困難につき当る。そこでより具体的には労働組合としての教員組合の民主化とその民主的集団的力に期待をかけねばならない筈であるが、この問題には殆んどふれられていない。

 第4に、労働に関する彼の立場である。これはラッセルの最も大きな弱点の1つだと思う。ラッセルの「個人」は、労働からむしろ離れたところで労働者管理する所謂エリートの問題として考察されていて、近代社会の労働者の問題は、重点的に考察されていない。
 したがって、民主主義を論ずる場合にも、基本的人権の問題乃至基本的人権と深く結びついた労働権、団結権、団体交渉権などの問題が充分に追究されていないうらみがある。

 この書は1932年に書かれただけに、多少の時代的ずれを感じさせる点がないでもない。しかも第2次世界戦争後の世界の状勢の変化と、社会主義国家の理論と実際との発展そのものももっと正確にみてとられねばならなくなっている。しかし、この書の中にふくまれる教訓と警告の珠玉のような数々の言葉に一度ふれて、われわれの前進の糧とすることはどうしても必要なことだと思われる。

 この訳書を選集に入れるに当って、とくに東大の勝田守一教授には訳文の校閲をねがった。多忙な時間をさいてくださったことを心から感謝している。しかもなおわたくしの力の足りないところから思わぬ誤りを犯しているかも知れないが、その点は一にかかってわたくしの責任である。
 なお、明治図書の木田氏、原稿の筆の手伝をしてくれた、愚弟富七郎、木村富美子嬢などの多大の御世話になったことを記して、感謝する次第である。
 * Alan Dorward, Bertrand Russell London; Longmans, Green & Co., 1951.
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