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鈴木祥蔵 解説・解題 バートランド・ラッセル 教育と社会体制 Education and the Social Order, 1932

出典:梅根悟・長尾十三二・共編『教育学の名著12選』(学陽書房、1974年)pp.249-269.

* (故)鈴木祥蔵氏(1919-2009)は、執筆当時、関西大学教授
pp.250-252:「ラッセルの生涯と著作」は省略

自由な世界人の教育

 はじめに

 バートランド・ラッセルの教育に関するまとまった著書は二冊である。一つは一九二六年の出版になる『教育論』(On Education, especially in early childhood)である。この本は同じ年にアメリカでも出版し、Education and the Good Life というように書名を変えている。しかし、内容は全く同じものである。他の一つは、一九三二年の『教育と社会体制』である。この本の原名は、Education and the Social Order であり、同じ年、アメリカでは『教育と現代世界』(Education and the Modern World)として出版された。アメリカで出版された本では、イギリス本の方の第二章「教育の消極説」と第三章「教育と伝統」を、ならびに第四章「感情としつけ」と第五章「家庭と学校」とをそれぞれ混ぜて一章ずつにして出版している。アメリカ社会では、これらの章においてラッセルが主張しようとしたことがむしろ一般的傾向となっているのでそれぞれ一章をあてるのは蛇足になると考えたためではないかと思われる。
 すなわち、『教育論』(On Education)は、ラッセルの第二番目の婦人ドーラとの間にできた二人の子どもの育児にちなんで考えたこと、こうなければならないと思ったことをまとめたものであった。この本はアメリカでも大変に好評を博して、たちまち六版を重ねた。ジョン・デューイはこの本を評して次のように述べている。

ラッセルの言葉366
 この書は、宗教としての教育文学とでもいうべき文献である。この書の特徴は、明晰な経験をもととした常識で書かれ、偉大な一般法則化などはみられないが、最も小さな一般法則から種々の問題についての注釈と訓戒とを与えている。この書はイギリスの最高の伝統の中に位置する一書である。
 にもかかわらず、この『教育論』に述べられている教育は、当時のイギリスの諸学校で行なわている教育とはおよそかけ離れているものであった。この理想を自分の二人の子どもたちを含めた子どもたちに与えてやりたいという気持もあって、ラッセルはドーラとともにビーコン・ヒルに「私立」の学校を開設したのである。この学校設立が一九二七年である。
 ビーコン・ヒル学校(Beacon Hill School)は、やがてジャーナリズムの好餌とされ、世論のあからさまな攻撃を受けることになる。これにはイギリス社会の保守のいやらしい一面がよくあらわれていて、ラッセルとドーラの勇気ある試みをこそ支持すべきだったのだが、イギリスではついにそうならなかった。ラッセルはより開放的(オープン)な自由なものにしなければならないと考えていた。そしてその当時大陸の方から渡ってきたフロイド旋風に大きく影響されていたラッセルは、心の歪みが性の抑圧と深くかかわると考え、性的抑圧からの解放を教育の重要な仕事の一つだと考えていた。この考えの一部をビーコン・ヒル学校で実践に移したことがヨーロッパ中の話題になるほどにジャーナリズムにさわぎ立てられたのであった。この辺の事情は、ドーラが後に整理して書いた著書に明らかにしている。
子どもが成長して入ってゆく社会についての一つの観念を(わたくしたちは)もっていた。それはデモクラティックな社会なのであって、高度な競争社会なのである。しかし、社会主義がすすむにしたがって協力ということがますます必要になってくる社会である。(したがって、)子どもたちは民主主義者であることを誇りとして社会で生きてゆくように教育されなければならない。子どもは自尊心をもち、独立の精神に富んだ民主主義者として成長することをわたしたちは望んだのである。
 われわれの学校委員会は、犯罪とか処罰とかいうことに何らの関心も示さなかった。子どもも、大人も、誰でもが学校の集会で文句を言うことができるし、問題を提案することが許された。学校に参加することを許可されるいなや-それは五歳からであるが-子どもたちは自由と自己統御が許されるのである。(Dora Russell, What Beacon Hill Stood For.  In: Peace News, p.32)
 このような民主主義的自由の雰囲気を学校の基調にしようとする志向と結合した男女の同権と性の抑圧からの解放とがフロイディズムに裏打ちされたかたちでビーコン・ヒルの実践となったのである。
 ドーラはさらにつづけて次のように述べている。
性に関する疑問についての新しい率直さが、特別のはげしさで非難された。しかし性教育に対するわたしたちの態度は、その当時にそれが巻きおこした敵意をもって迎えられるようなことは今日ではもはやなくなった。わたしたちは性に関するすべての疑問に答えたし、どうして子どもが生まれるかということも説明してやった。しかし、性教育を特別に講義したことはなかった。この学校の子どもたちは、殆んどが青年期に達するまでに学校を去った。わたしたちは、戸外のダンスと体操では特に、彼等がもし希望するならば、夏の期間は着物をすべてぬぐことを許した。(Dora Russell, opcit, p.40/写真(Beacon Hill Schoolにて)出典:R. Clark's Bertrand Russell and His World, 1981)
 ラッセルは、人間が攻撃的になるとき、とくに集団的攻撃性をもつにいたるのは戦時であって、日頃きわめて温和に見える人びとの心内に、ある日突然、湧然とわき起こってくるあの攻撃的な情動のはげしさは、幼時以来の性の抑圧一つの原因であると考えていた。この考え方は他の彼の著書、たとえば『社会改造の諸原理』(一九一六)にも、『工業社会の前途」(一九二三)、また『権力-新しい社会分析』(一九三八)にも主張されている。ラッセルは一貫して性の社会的解放が必要であると同時に、幼時期から抑圧を排除しなければ、人間にもっとも重要な意味をもつ知的好奇心をそこねてしまうことになると考え続けていた。しかし、性の抑圧からの解放と一緒に知的訓練はすべて抑圧になると考えるとき(=考えてしまうと)、教育に混乱がおこり失敗するということを、ビーコン・ヒルの実践の反省の中で述懐するようになるのである(注:知的訓練の重要性)。ドーラとの夫婦生活がうまくいかなくなるのもそれが一つの原因であったと考えられる。(Herbert Gottschalk: Bertrand Russell eine Biographie, 1962)
 『教育論』に加えられた批判や誤解に答えると同時に、より緊迫してきた世界情勢の危機を回避して平和な国際関係をつくり出してゆくための手だての一つとして、ラッセルはこの『教育と社会体制』を書くことになるのである。
 一九二〇年の終わるころから、資本主義諸国家は深刻な危機に見舞われていた。アメリカではニューディール政策の採用がこれを象徴している。イギリスでは、一九二六年の大罷業以来、波状的な労働攻勢が次第にその波を高めてゆき、一九二九年にはじめて労働党が総選挙で大勝利を収める。その年、アメリカのニューヨーク株式は大暴落をみ、パニックが世界的な規模で拡大しつつあった。一方、イタリアではムッソリーニのファシスト党の独裁が成立した。国家とか民族とか、社会とか、景気とか不景気ということばが、世界中の人びとの口の端にのぼっていた。ラッセルは帝国主義間の戦争の危険を誰よりも強く懸念していた。この危機を回避したいという気持がこの『教育と社会体制』には実に美事に表現されている。以下、この本の主要な問題を今日のわが国の教育問題にかかわって取りあげてみようと思う。


 個人と世界の統一

 『教育と社会体制』の第一章は「個人と市民」であり、最後の章である第一六章が「個人性と市民性との調和」で結ばれている。
 ラッセルは、まず最初に、「…教育は子どもたちを立派な個人に育てあげるべきか、それとも善良な市民(citizen)に育てあげるべきか」という疑問をかかげてこの問題から論をすすめている。
 へーゲル流の哲学に従う人たちは、よき個人とよき市民との間には矛盾がなく、対立すると考えること自体誤りだというであろう。しかし、実際の日常生活においては、子どもを一個人として考える教育のもたらす結果と、子どもを未来の一市民として考えて行なう教育の結果とはまるで違ってくる。これが明瞭に自覚されなければならないとして、彼は「よき個人」と「よき市民」とを対立させて、その結果から考察することをすすめている。
 「よき個人」というのはライプニッツのモナドのように、研ぎすまされた知性によって、世界や宇宙をうつし出す人であって、容易に妥協しない人である。それは強固な意志に支えられていなければならない。この個人の意志は 'かかるものを、地上にあらしめよ' という神のごとき意志である。
 哲学者、思想家、芸術家、科学者、それに政治家さえも、すぐれた個人は、常に世論の非難やあざけりや批判にめげずに自己を貫いた人たちである。彼らは途中で「よき市民」になることで妥協してしまったら、おそらくすぐれた業績をあげて後世のものたちにさまざまな恩恵をもたらすことがなかったであろう。
 「よき個人」とは、「自己自身にたよるもの」であって何らかの新機軸を打ち出す人である。一方、「よき市民」というのは本質的にかれの近隣によって「とりまかれた」ものであって、相争う意志間の調和点を見いだすことに熱中する人になる。ラッセルは次のようにいっている。
市民の基本的性格は(実際にはそうしなくとも、気持の上だけでも)協力するということにある。政府が考える「市民」とは、国家の現状(the status quo)を尊敬し、その維持に身を捧げるものである。おかしな話だが、すべての政府は、他のすべての型のものは排除してこのような種類の人だけを育てようとしているくせに、政府が持ち出す過去の英雄たちはみな、全く現在育てまいと思っている型の人物だったのである。(『教育と社会体制』鈴木祥蔵訳、明治図書、p.12)
 明治維新に貢献した多くの元勲などといわれたものたちは、徳川政府に反逆した人たちであった。一方でその人たちの行動を賛美しながら、現政府をきびしく批判するとたちまちその人を反逆者として弾圧する。その矛盾を教えないでむしろそれを正当視する教育が「市民(citizen)」を教育するという教育だと、ラッセルはいうのである。
 ラッセルは、「キリストは(今日もし彼が生きてアメリカに生きているとしたら)武器を持つこと(武装)に反対であるという理由で、アメリカの市民たることを拒まれるであろう。」といっていいはずだし、その意味でアメリカ「市民」であることが必ずしも最高の人間であるとはいえないというのである。
 ラッセルの考えによれば、人間の価値はその理性にある。理性は科学的であるときにその本来の価値を発揮する。科学は常に近似的に真理に近づくのであって、これが永遠不変の真理だといえるものはないということを明らかにしてくれる力である。
科学する心は、懐疑的なものでも、ドグマティックなものでもない。懐疑派の方は真理など発見できないと観念しているし、独断派は真理は発見されてしまったつもりでいる。科学を愛する人たちは、とにかくかれの探究している事象のなかに真理は発見されていない場合でも、発見できるものだと考えているものである。
 最終的な断定をしないということが、科学的精神の粋(精髄:エッセンス)なのである。
(Absence of finality is the essence of the science spirit)(邦訳書、p.20)
 ラッセルはこの問題を論ずるときに、基本的人権という概念を一度ももちだしていない。基本的人権に含まれる自由権の概念は、あらゆる現実的な集団に先立って「個人の権利」は尊重されなければならない、つまり国家さえもこの人間の固有の権利を侵害してはいけないという思想である。このことをなぜラッセルは主張しなかったのであろうか。そこに、私はラッセルの貴族的性格をみるのである。現にラッセルが知性といって尊重する科学の能力や精神を養う機会を奪われている人たちが、もしも科学というものが真理を明らかにし、その真理がもたらすであろう万人を幸福にしてくれる現実的結果をもっとも強くのぞんでいるとしたら、その人たちの支えなしに、科学する心をもったインテリが現にある権力を批判し、その権力の恣意とたたかってゆくことができないのである。
 ラッセルはその代りに、「よき個人の予定的に調和する世界政府」をつくりあげることを提案するのである。
 ラッセルは世界戦争を避けることができれば、たとえ一時的に世界中が共産主義政府でぬりつぶされてもかまわないともいう。それは帝国主義戦争を避ける唯一の手段であるならばそれも止むを得ないことだというのである。しかし、現にある共産主義は(ラッセルはソヴェトをいうのだが)画一主義で官僚統制がきびしすぎる。だからそうならないで多元的な価値の共存を許し、国家間の紛争を調停できる力と権威のある国際機関の設立こそ必要なのだというのである。
もちろん、ドイツが大戦に敗れたがために罰せられるということが無くならなければ、安定した平和があり得ないことは自明である。そしてその状態は、フランスがヨーロッパを支配することをやめなければ実現できない。また、フランスは恐らく戦争の結果として以外に、その支配を思いとどまることはあり得ない。
 これは一九三二年の当時としては極めて洞察あることばであった。彼が心配していた通りに、第二次世界戦争はまもなく勃発したのである。第一世界戦争の敗戦の賠償の一部としてフランスはドイツから牝牛を八十万頭とりたてたといわれている。ドイツ市民の多くが戦後しばらくは殆んど牛乳を飲むことができなかったばかりでなく、赤ん坊が飲むミルクを都合することのできない母親たちがミルクビンをもち赤ん坊をかかえて、「ミルヒ、ミルヒ」と叫んで歩く姿をよくみかけたと伝えられている。そこにヒットラーが生み出される必然性があったといわざるを得ないだろう。
 ラッセルはいう。
権威ある国際的な機関の設立によって、平和を維持する本物の希望が少しでも起らない限りは、まず解決されないであろう。あるいは今後二十年以内に共産主義の勝利によって、すべて解決されるということがあるかも知れない。しかしわたしはこれを信頼して待つほどの楽天家ではない。(邦訳書、p.192)
 つまり、その前にもう、国家主義的な帝国主義戦争が始まるだろうと考えていたのである。
 第二次世界戦争が始まって問もなく、ラッセルは、ドイツ、イタリー、日本の枢軸国家を相手にした戦争をむしろ支持する側にまわった。ファシストたちとは戦う以外に方法なしと判断したからであった。しかし、戦争の最終段階にきてアメリカの使用した広島と長崎における原爆は、ラッセルに大きな衝撃を与えた。第二次世界戦争後の国際連合の組織はある程度ラッセルの意にかなったようであるが、その機関さえも原爆所有国の力に従属させられる危険があるので、それにだけ依存するわけにいかず、別に原爆を阻止する力が大衆的な規模で展開される必要をラッセルは強く感じたのである。
 ラッセルは、第一章の終りで次のようにいっている。
「一たぴ世界が唯一の経済的・政治的単位として確立したあかつきには、個人の教化が必ず蘇生する可能性をもつであろう。しかし、その日がくるまでは、われわれの全文明は危険にさらされ続けるのである。永遠の相下において考えると(sub specie acternitatis)、「個人の教育」は「市民の教育」より、よりよいものだと私には思われる。にもかかわらず時代の要求にかかわって政治的に考えると、おそらく、「市民の教育」が優位に立たざるを得なくなることを私は恐れている。(邦訳書、p.24)
 このラッセルの憂慮は今日も依然としてわれわれのものである。

 知性を研ぎすます教育

 先に、ラッセルの理想とする個人は、科学の立場に立つ人であって,ドクマティズムを排除する人だといった。それ故にこの個人は、懐疑に終始するのかといえばそれはそうではない。ラッセルは科学者の信念は概説的であり、真理を近似値として信ずる立場を貫くことであるとする一方で、絶対的一般的命題のあることを認めるのである。このような命題は純粋に論理的な命題なのであって、この点ではアプリオリを認めようとする。彼の所謂、「一般的命題」はそれであって、そこからラッセルの中性的一元論(Neutral Monism)の立場が主張されるのである(注:このあたりは論理の飛躍あり)。彼は、このような立場からプラグマティズムに反対し、プラグマティズムは「勝てば官軍負ければ賊」という力の論理を容認してしまうと批判する。彼にいわせれば、プラグマティズムはファシズムの論理であるということになる。何故ならば、虚偽を主張するものが、相手を力で圧倒すればそれは正しかったからだとされ、「虚偽=真理」ということになってしまうからだというのである。
 また、ラッセルは弁証法を否定する。中性的一元論としての一般的命題は、むしろ形式的真理に基準をおくのである。AはAであり、Aは非Aであり得ない。弁証法は都合のいい論理ではあるが、それが下手に適用されればプラグマティズムと同様に虚偽を真理と混同する主観主義に転落するというのである。
 ラッセルの主張する「知性」が非常にスッキリしたものに感じられる根拠はそこからきているといっていいであろう。
 ラッセルはこの『教育と社会体制』という著書全体を通じて「明晰なる判断力」を養うことが教育の中心の課題であることを主張し続けている。
 その第二章「教育の消極説」では、ルソー以来の消極説(Negativism)を評価し、とくに、「文学や絵や音楽について、自己表現よりも正確さという点からのみ過度に教え込まれた子どもたちは、次第に人生の美的な側面に興味を覚えなくなってくる。」といって、芸術教育における消極説を高く評価しながら、彼は、知的教育の面ではそれを次のように批判している。
われわれは、現に近代産業の複雑な全構造に、身を委ねているわけである。そしてそうする以上、われわれの子どもたちを、それを維持するに適するよう教育せねばならない責任を、われわれ自身背負っている。したがって、教育における消極説は、多くの真理としての重要な要素をふくみ、なかんずく感情に関する限りにおいてはほとんど正しいにもかかわらず知的なそして技術的な訓練に関しては、その完全性を承認するわけにゆかない。これらに関する限り、より積極的な何かが必要である。(邦訳書、p.37)
 ラッセルはまた、その第五章「家庭と学校」で、「教会と国家とはともに、知性と徳との和解し難い敵である」と断言し、その第六章「貴族主義者、民主主義者、官僚主義者」という章では、イギリスのパブリック・スクールを口をきわめて罵倒し、「パブリック・スクールの精神は、知性軽蔑の精神である。そしてさらに特徴的なのは科学的知性の軽蔑の精神であることだ。」(訳書p.65)といっている。また第七章「教育における集団」では、強力な集団の圧力をうけて恐怖した子どもたちは、知的な冒険ができなくなって、おどおどと人の顔色をうかがって生きる可哀そうな市民になるか、ナポレオンのように少年の頃にうけた集団の軽蔑へ 'アラビアンナイトばりの復響' をくわだて、世界中の人に大変な迷惑をかける人間をつくってしまうことになりかねないこともあると警告している。
 第八章「教育における宗教」でラッセルが強く宗教に反対するのも、宗教教育の悪い影響は、一つにはそのドグマを子どもにおしつけて、疑問をもつことを敵視させてしまうことであり、一つには種々のまだ疑わしい命題をもすでに明らかな真理として簡単に信じこませようとすることにあるとし、したがって宗教は概して知性を抹殺してしまうと結論している。
 次にラッセルは「教育における性」を論じ、宗教的な迷信と、私有財産制度とが男女の性の平等の阻止要因として重要な役割を果たしてきた。そして教育はそれと結びついて性を敵視することを教えることが必要だと考えてきた。その結果として知的な冒険が制止されることになり、固くるしさが教育的だと考えられることになったのだと指摘して、次のようなことを述べている。
ときには詩となって昇華し、あるときは心明るく陽気になり、またあるときは悲劇の陰翳をも秘めることのある自然の喜びとしての性の全概念は、喜びと結びつくものはすべて邪悪なもの、くすんだそして習慣的なものだけが貞淑なものと考えている衒学的な道徳家たちの視野の外におかれている。詩も喜びも美も、この醜悪な倫理学によって生活の外に放逐されている。そして化石のような冷酷なものが人間関係のなかに導きこまれている。このような見地から、お上品ぶりと、心の貧しさと、想像力の死とがやってくる。自由な見地にもやはり危険はともなうに違いない。しかしそれは生の危険ではあっても、死の危険ではないのである。(邦訳書p.107)
 次にラッセルは、第一五章「教育における愛国心」へと進む。その中で彼は次のように述べる。
もしも諸君が、自分は恐怖で辟易するようないまわしい犯罪を誰かにやらせたいと思うなら、まず強悪犯人の一味に忠誠を誓わせ、それから彼らの犯す罪は、実は忠誠精神の実例であると思い込ませればいい。愛国心というのはこういうからくりの最も完全な例である。(邦訳書、p.121ページ)
 教育の場で国旗がいたく重視されるのも間違いであり、「国旗はその国の戦闘能力の象徴である。」とし、ニュートンやダーウィンのような人たちはユニオン・ジャックに忠誠を誓ってその仕事をしたのではなく、イギリス国家に住むイギリス人としてやったのでもない。いやもっとも人間らしくふるまったのだと指摘している。
 さらに、「なかんずく、国家主義の教育の、どうしても偽りを教えるという、純粋に知的な面での疑義は無視できない。」(p.114)として、たとえばある国で子どもたちに、わが国は世界で一番良国であると教えるとする。その他の国もそうしたとする。われわれにいえることは、どちらかが虚偽教えていることになるではないか、とラッセルは言うのである。
 ラッセルのニュートラル・モニスムの真理観からいうとそれこそが知的混乱であるというのである(注:これはこじつけといわなければならない。哲学説の neutral monism とはまったく関係ない。)。「国家主義がわれわれの文明を否応なしに死へ導く主力である。」と彼はこの章を結んでいる。第一二章の「教育における競争」は、今日のわが国の教育情況を見ていて書いたのではあるまいか思われるばかりに進学競争からくる教育の歪みを指摘する。
教育において、競争に信頼をおくことの最悪の欠陥の一つは、特に優秀な学童たちにとって、あまり過剰な教育をやりすぎるということである。現在南北アメリカにはないけれども、西欧のすべての国々に、青年たちにの想像力も知性もまた健康さえも危険に曝すような教育過剰の傾向がある。(邦訳書、p.222)
 わがくにの子どもたちは、新しいものも古いものもごたごたと教材として盛りこまれた検定教科書を与えられ、入学試験競争に勝つためにはこれを覚えなければならない上に、さらに不特定の無制限の断片的知識の記憶競争にかり立てられ、そして疲労しつくしている。
 このような勉強を強制されることが続く結果として、盲従を習性とする者が多発し、「合理的討論にふされてしかるべき事柄の問題についても、何かきまりきった答えがすでにあると信じ」(p.137)てしまうような若者を多くつくってしまう。これは知性を墓場に埋めさせるようなものだとラッセルは、その害をきびしく指摘するのである。
 研ぎすまされた知性とは何か。そして知性を研ぎすます方法は何か、そのことが教育の中心の課題にならなければならないというラッセルの主張は、われわれの課題でもある。

 教育と政治

 一九二〇年に,革命間もないソヴェト見て帰り、その直後一九二一年には,東洋の国々、特に日本、中国にわたった。それらの見聞を基礎にして、当時の妻ドーラ・ラッセルと共著の形で書いた『産業文明の前途』(Prospects of Industrial Civilization, 1923)には,教育に関する一章が当てられていて,そこで彼は,「一つの教育の組織は、それを建設する社会の理想を具現する。したがって,その組織は,その社会の理想なるものを改革することなしには,根本的に改革することは不可能である。」といっている。ここで教育の組織といっているのは勿論、教育の制度である。ラッセルのこの考え方は『教育とと社会体制』というこの著書にもつらぬかれている。
  第六章の「貴族主義者、民主主義者、官僚主義者」においては、ラッセルは、社会がますます複雑で産業文化が高まれば当然に官僚の数がまし,その官僚の質によってその社会の住み易さが決定される。したがって,今後の教育の焦点の一つは賢明にして智慧ある有能な官僚をどうしてつくりあげるかという点にあるという。一見突飛な彼の考え方は,産業文明の前途の洞察からそのような主張を打出すのである。
 第一三章「共産主義下の教育」も政治的な教育論であるし,ひきつづく第一四章の「教育と経済」も如何に教育が政治的なことがらと関係するかの指摘である。
 ラッセルは,彼のもっとも初期の著書に属する『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstrection, 1916)の中で次のようにのべる。
如何なる政治理論も、それが成人の男女に適用できると同様に,子どもたちにも適用できるものでない限り,決して充分なものとは言えない。理論家は大てい子どもをもっていない。たとえ子どもがあったとしても,子どもたちのために惹起される妨害を用心深く避けている。彼らのあるものは教育に関する著作をするが,概して彼らが著作している間,心にどんな実際の子どもをも思い浮べることはないのである。……
 しかし政治的制度としての教育に関するある種の問題は、社会改造の如何なる希望の中にも含まれており,しかもそれは教育の理論にかかわる著者たちによって普通考察されていないのである。わたくしの論じようとするのはその問題である。(『世界の大思想』第26巻、河出書房、市井三郎訳『社会改造の諸原理』p.91)
 このことばは、この『教育と社会体制』という本の序文としてもってきても、全く適切なことばであると思われる。
 この本が書かれてからすでに四〇年以上も経過したが,ますます一読に値する本の一つとして輝きをましてきている。

参考文献
(1) 水口志計夫編「ラッセル書目」日本バートランド・ラッセル協会会報第八号)
(2) ラッセル『教育と社会体制』(世界教育学選集・第8巻)鈴木祥蔵訳,明治図書
(3) ラッセル『教育論』堀秀彦訳、角川文庫
(4) ラッセル『教育論』(世界大思想全集:哲学・文芸思想篇第一八巻)堀秀彦訳、河出書房新社(了)