「実用」対「教養」論争教育において,民主主義と結びついているもう一つ別の近代的な傾向が見られる。だが,それは,多分,いくらかより疑問の余地があるものである。私が言っているのは,教育を'装飾的'よりも'実用的'にしようとする傾向のことである。'飾り'(装飾的要素)と'貴族主義'との'結びつき'(関連)については,ヴェブレン(Thorstein Veblen,1857-1929:アメリカの経済学者,社会学者)の『 有閑階級論』(Theory of the Leisure Class,1899)のなかで,く指摘されている。しかし,ここで我々が関心を持っているのは,両者の'結びつき'(関連)のなかの'教育上の側面'のみである。'男子教育'の場合,その問題(教育における装飾的要素と貴族主義との関連)は,'古典的教育'と「近代的」教育との間の論争と結びついている。'女子教育'の場合,その問題は,「淑女」という理想と,少女(女の子)を訓練して'自活'(経済的自立)の可能な人間にしたいという欲求との衝突の'(問題の)一部'になっている。しかし,女性に関わる教育問題全体が,'性的平等'への欲求によって,これまでゆがめられてきている。(即ち)それ自体まったく良くない場合であっても,'男子'と同一の教育を獲得しようという試みがこれまでなされてきた。その結果,女性教育家たちは,同じ階級の男子生徒に与えられている「無用な」知識を女生徒にも与えることを目指すとともに,女子教育の一部は'母になるための技術教育'でなければならないという考え方に激しく反対してきた。「立派な女性」という理想が衰退したことは,この傾向(教育を'装飾的'よりも'実用的'にしようとする傾向)の最も注目すべき事例の一つであるが,こうした'対立する動き'のために,この傾向も,女性に関するかぎり,いくつかの点で明確でなくなってくる。そこで,論点を混乱させないために,当面,話題を'男子教育'のみに限ることにしよう。多くの別の論争が--それぞれの論争の中で(それぞれ)別の問題が生じているが--,部分的に,我々の当面の問題に依存している。(たとえば)男子生徒は主に'古典'を学ぶべきか,あるいは,主に'科学'を学ぶべきか。別の種々の考え方の一つに,古典は'飾り'であり,科学は'有用'である,というものがある。教育は,できるだけ早く,何らかの商売や専門職のための'技術教育'となるべきか? ここでまた--決着しないだろうが--'実用'か'飾り'かという論争が関係してくる。子供たちは,正確に発音をし,感じのよい行儀を身につけるように教育されるべきか,あるいは,そういったものは貴族主義の'遺物'でしかないのか。'芸術鑑賞'は,芸術家以外の人にとっても何か価値があるものか。'つづり字'は'表音的'であるべきか。このような論争やその他多くの論争は,一部,'実用'か'飾り'かという論争の観点から行なわれている。 (いろいろ論争になっているが)それにもかかわらず,これらの論争はすべて実質がない,と私は信じている。(即ち)用語が定義されるやいなや,それらの論争は消え去る。もし「実用」を広義に解釈し,「飾り」を狭義に解釈すれば,一方の側(実用主義者)に分があり,その逆の解釈をすれば,他方の側(教養主義者)に分がある。語の最も広い,最も正確な意味では,ある活動がよい結果をもたらせば,その活動は,「実用的」(実利的・有益)である。また,これらの結果は,単に「実用的」であるとはいくらか違った意味で,「善い」ものでなければならない。そうでなければ,真に定義したことにならない。実用的な活動とは実用的な結果をもたらすものである,と言ったところではじまらない。「実用的」であることの本質は,単に実用的であるだけでない何らかの結果に'資する'(役立つ)ということである。ときとして,ただ「善い」と言えるような'最終結果'に達するまでに,長い一連の諸結果が必要になることがある。鋤(すき)が有用なのは土地を掘り起こすからである。しかし,土地を掘り起こすことは,それだけでよいのではない。次に(その後に),'種'をまけるようにするからこそ'有用'である。種が有用なのは穀物を生み出すからであり,穀物が有用なのはパンを作り出すからであり,パンが有用なのは生命(life)を維持するからである。しかし,生命(life)は,何らかの本質的な価値を持ちうるものでなければならない。もしも,生命(life)がほかの生命(other life)のための手段としてのみ有用だとすれば,生命(life)はまったく有用ではなくなるだろう(例:黒人は白人のため,一般人民は一部のエリートのため,ユダヤ人はドイツ人のため,特攻隊員は天皇のため・・・,アメリカ人の生命と自由を守るため他国民が犠牲になっても・・・)。生きる期間(life 生命)は,境遇(置かれた状況)次第でよくも悪くもなる(なりうる)(注:安藤氏は,「life を「生命」と生活」を訳しわけ、ここでは、「生活は,境遇次第でよくも悪くもなる」と訳されている。)それゆえ,生きる時間(life 生命)もまた、善い人生(good life 良い暮らし向き)の手段となるとき,有用になりうる(可能性がある)(注:善い人生をめざすことにより,生命も「いっそう」有用になるということか。「いっそう」をつけたほうがよいのは,善い人生・生活でなければ生命は有用でない,というのは言いすぎだと思われるため)。私たちは,どこかで連続した有用性の鎖の先に行き,その鎖をかける留めくぎを見つけなければならない(注:安藤氏は,「有用性の鎖を断ち切って・・・」と訳されているが,断ち切ってしまったら,鎖をくぎに留めることができなくなってしまう!/この辺は,プラグマティズムの批判か)。そうでないとしたら,鎖のいかなる輪(いずれの輪)も真の有用性は存在しない(ことになる)。「実用的」という言葉をこのように定義すれば,教育は実用的であるべきかどうかについて,疑問の余地はなくなる。もちろん,教育は実用的であるべきである。なぜなら,教育する過程は,ある目的に対する手段であり,それ(教育する過程)自体が目的ではないからである。しかし,教育の実用性の主唱者たちが思っていることは,必ずしもそういうことではない。彼らが力説しているのは,'教育の結果'は有用でなければならないということである。粗っぽい言い方をすれば,教育を受けた人とは,機械の作り方を知っている人のことである,と彼らは言うだろう。機械は何の役に立つのかと質問されば,彼らの答えは,結局,機械は人間の肉体のための'生活必需品'や生活や身体を安楽にするもの--たとえば,衣食住など--を作り出す(ことができる)ということになる(注:ここでは,「食-衣-住」の順番になっている。寒い地方や日本では,慣用句として,「衣-食-住」の順番になる? 大部分の国においては,「食」が一番先にくるのだろうか?)。こうして,'実用性'の主唱者は--その見解は問題があるという意味で?--肉体の満足にのみ'本質的な価値'を与える人間であることがわかる。(即ち)>彼にとって,「実用的な」ものとは,肉体の要求や欲望を満たすのに役立つものである。これが'実用性'ということが実際に意味することである場合,もしも実用性の主唱者が究極的な哲学を述べているのであれば,彼は確かにまちがっている。ただし,多くの人が飢え死にしている世界では,彼は政治家としては正しいのかもしれない。なぜなら,身体の要求を満足させることが,当面,何よりもまず急を要することだろうからである。 |
Chap. 1 Postulates of Modern Educational Theory(OE01-030)
Many separate controversies, in all of which other questions arise, are in part dependent upon our present question. Should boys learn mainly classics or mainly science? Among other considerations, one is that the classics are ornamental and science is useful. Should education as soon as possible become technical instruction for some trade or profession? Again the controversy between the useful and the ornamental is relevant; though not decisive. Should children be taught to enunciate correctly and to have pleasant manners, or are these merely relics of aristocracy? Is appreciation of art a thing of any value except in the artist? Should spelling be phonetic? All these and many other controversies are argued in part in terms of the controversy between the useful and the ornamental. Nevertheless, I believe the whole controversy to be unreal. As soon as the terms are defined, it melts away. If we interpret 'useful' broadly and 'ornamental' narrowly, the one side has it; in the contrary interpretations, the other side has it. In the widest and most correct sense of the word, an activity is 'useful' when it has good results. And these results must be 'good' in some other sense than merely 'useful', or else we have no true definition. We cannot say that a useful activity is one which has useful results. The essence of what is 'useful' is that it ministers to some result which is not merely useful. Sometimes a long chain of results is necessary before the final result is reached which can be called simply 'good'. A plough is useful because it breaks up the ground. But breaking up the ground is not good on its own account; it is in turn merely useful because it enables seed to be sown. This is useful because it produces grain, which is useful because it produces bread, which is useful because it preserves life. But life must be capable of some intrinsic value: if life were merely useful as a means to other life, it would not be useful at all. Life may be good or bad according to circumstances; it may therefore also be useful, when it is a means to good life. Somewhere we must get beyond the chain of successive utilities, and find a peg from which the chain is to hang; if not, there is no real usefulness in any link of the chain. When 'useful' is defined in this way, there can be no question whether education should be useful. Of course it should, since the process of educating is a means to an end, not an end in itself. But that is not quite what the advocates of utility in education have in mind. What they are urging is that the result of education should be useful: put crudely, they would say that an educated man is a man who knows how to make machines. If we ask what is the use of machines, the answer is ultimately that they produce necessaries and comforts for the body - food, clothing, houses, etc. Thus we find that the advocate of utility, in the sense in which his view is questionable, is a man who attaches intrinsic value only to physical satisfactions : the 'useful', for him, is that which helps us to gratify the needs and desires of the body. When this is what is really meant, the advocate of utility is certainly in the wrong if he is enunciating an ultimate philosophy, though in a world where many people are starving he may be right as a politician, since the satisfaction of physical needs may be at the moment more urgent than anything else. |
(掲載日:2006.08.28 更新日:)