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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展(松下 訳)- My Philosophical Development, 1959

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第8章 「数学原理ーその数学的側面」 n.3 - 順序づけられた対の組

 当時私は、関係(というもの)をほとんど全く内包(注:intensions ある概念が適用される範囲すなわち外延に属する全てのものに共通な属性)として考えていた。私は「xy に先行する(先立つ)」とか、「xy より大きい」とか、「xy の北にある」というような文章を考えていた。形式的な算法の見地からは、関係を順序づけられた対の組と見なすことはできるけれども、その組に統一を与えるものは内包のみである、と私には思われた。これは今でもそう思っている。同じことがもちろん集合についてもあてはまる。ひとつの集合に統一を与えるものは、その要素(メンバー/成員)に共通かつそれらに特有な内包のみである。このことは、要素を枚挙できない集合をとり扱う場合には常に明らかである。無限集合の場合には枚挙すること(注:一つ一つ全て数え上げること)が不可能であることは明らかである。しかし,大部分の有限集合についても同様である(等しく真である)。たとえば、「はさみむし」(earwig)(注:「耳の虫」の意で、眠っている人間の耳に潜り込み中に食い入るという伝承による)の集合の全ての要素を誰が枚挙できるであろうか?(できやしない)。(しかし)それにもかかわらず、我々は「全てのハサミムシ」について(それが真であれ偽であれ)陳述をすることができるし、それは、その集合(ここではハサミムシの集合)を定義する内包によって(in virtue of ~によって)やっているのである。全く同じような考察が関係の場合にもあてはまる(適用できる)。我々は、xy に先立つような x, y の対の全てを枚挙することはできないが、「(先立つ(先行する)」という語(の意味するところ)を理解しているので、時間における順序について多くのことを言うことができる。けれども関係を対の集合と見る見解に反対する論拠がさらにある。(即ち)そういった対は順序づけられた(順番を有する)対でなければならない-即ち、x. y という対を、y, x (という順序を持つ)対から区別できなければならない(という論拠である)。この区別は、内包における何らかの関係による以外、行うことはできない(訳注:「x, y 」も 「y, x」も、外延(=範囲)は同じなので、内包でしか両者を区別できない)。我々が集合や述語だけを考えているかぎり、順序というものを解釈できず、順序づけられた対を、順序をもたない二つの要素から成る集合から、区別できないのである。

Chapter 8 Principia Mathematica: Mathematical Aspects, n.3


Bertrand Russell Quotes 366
I thought of relations, in those days, almost exclusively as intensions, I thought of sentences such as, 'x precedes y, 'x is greater than y', 'x is north of y'. It seemed to me - as, indeed, it still seems - that, although from the point of view of a formal calculus one can regard a relation as a set of ordered couples, it is the intension alone which gives unity to the set. The same thing applies, of course, also to classes. What gives unity to a class is solely the intension which is common and peculiar to its members. This is obvious whenever we are dealing with a class whose members we cannot enumerate. In the case of infinite classes, the impossibilities' of enumeration is obvious; but it is equally true of most finite classes. Who, for example, can enumerate all the members of the class of earwigs. Nevertheless, we can make statements (true or false) about all earwigs, and we do this in virtue of the intension by which the class is defined. Exactly similar considerations apply in the case of relations. We can say many things about order in time because we understand the word 'precede', although we cannot enumerate all the couples x, y such that x precedes y. There is, however, a further argument against the view of relations as classes of couples: the couples have to be ordered couples, that is to say, we must be able to distinguish the couple x, yfrom the couple y,x. This cannot be done except by means of some relation in intension. So long as we confine ourselves to classes and predicates, it remains impossible to interpret order or to distinguish an ordered couple from a class of two terms without order.
(掲載日:2019.09.30/更新日: )