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バートランド・ラッセル 自伝 - ウィトゲンシュタイン n3(松下彰良 訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.2

前ページ 次ページ v.2,chap.2 (Russia) 目次 Contents (総目次)

第2巻第2章 ロシア)(承前)

 ウィトゲンシュタインは論理学者であったが,同時に愛国主義者であるとともに平和主義者であった。彼はロシア人を高く評価していた。前線(交戦地域)で(敵国の)ロシア人たちと親しくしていた。彼は私に次のように語った。ある時,ガリシア(Galicia)(注:現在の西ウクライナ付近の「ガリツィア」のこと/スペイン北西部のガリシアではないことに注意)のある村で --そこではしばらくの間やることが何もなかったが-- たまたま一軒の本屋を見つけ,その本屋にはきっと1冊はあるにちがいないという考えが彼の脳裏に浮かんだ。ちょうど1冊だけあり,それはトルストイの『福音書』(四福音書)に関する本であった。それゆえ彼はそれを買って読み,多大の感銘を受けた(とのことであった。)。
 ウィトゲンシュタインは,一時期,非常に宗教的になった。彼の宗教心は非常に高まり,(無神論者である)私は交際相手として邪悪すぎる,と思い始めた。彼は,生計をたてるために,オーストリアの田舎のトラッテンバッハ(Trattenbach)という村の小学校教員になった。彼は,そこから私に次のような内容の手紙を書いてよこした。「トラッテンバッハの人々はとても邪悪です。」 それに対し私は,こう返事をした。「その通りです。人間は全てとても邪悪です。」と。それに対し,彼はこう返事をよこした。「それは真実です。しかしトラッテンバッハの人間は,他のどこの地域の人間よりもずっと邪悪です。」 私は,自分の論理的感覚では,そのような命題(注:「トラッテンバッハの人間はいかなる地域の人間より邪悪である」という命題)に対し反感を覚えます,と返事をした。(注:論理的にいって,「通常」どこかの地域だけ特別悪人が極端に多いということは言えないし,ありそうもないことであるので,論理学者のウィトゲンシュタインの日頃の主張と異なるのではないか,という皮肉か)。しかし彼の見解にもいくらか正当性があった。トラッテンバッハの小作農たちは,ウィトゲンシュタインがお金に関係しない計算問題を教えた(お金に関係する計算問題は教えなかった)という理由で,彼にミルクを供給することを拒んだ。ミルクが供給されない期間中,彼は,飢えと日用品のかなりの欠乏に苦しんだに違いないだろうが,彼は反逆天使としてのプライドがあったので,そのことについて語ることはきわめて稀であった。(しかし)ついには,彼の姉(注:マルガレーテ)が新しい家を建てる決心をし,彼を建築家として雇った。この仕事は,彼に数年間食べていけるだけのものを与え,この仕事が終わると,彼は(1929年に)ケンブリッジ大学にドン(コレッジ住み込みの大学教師)として戻って来たケンブリッジでは,クライブ・ベルの息子(注:Julian Bell)が,ウィトゲンシュタインを非難する英雄対韻句(heroic couplets:押韻した弱強5歩格の対句)の詩を書いた。彼はいつも容易に社交の場に適応するということはなかった。ホワイトヘッドは,ウィトゲンュタインが初めてホワイトヘッドのところに会いに来た時のことを(私宛の手紙に)次のように詳細に書いている。アフタヌーン・ティーの時間に,ウィトゲンシュタインは応接間に通された。彼は,その部屋にホワイトヘッド夫人がいることにほとんど気がついていなかったようであるが,しばらくの間,沈黙したまま部屋の中を行きつ戻りつした。そして最後に突発的にこう言った。「1つの命題は,2つの相反する極をもっている(ひとつの命題には2つの極がある。)それは apb です(注:a と b は ともにp = pole を持つという関係にある?)」と。ホワイトヘッドは,-私に語ったところによれば-,こう言った。「私は,当然,aとbというのは何ですか,と質問したが,まったくまずいことを聞いてしまったとわかりました。'a と b は定義不能です'」と,ウィトゲンシュタインは,雷鳴のような声で答えました。

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Wittgenstein, though a logician, was at once a patriot and a pacifist. He had a very high opinion of the Russians, with whom he had fraternised at the Front. He told me that once in a village in Galicia, where for the moment he had nothing to do, he found a book-shop, and it occurred to him that there might be a book in it. There was just one, which was Tolstoy on the Gospels. He therefore bought it, and was much impressed by it. He became for a time very religious, so much so that he began to consider me too wicked to associate with. In order to make a living he became an elementary school-master in a country village in Austria, called Trattenbach. He would write to me saying: 'The people of Trattenbach are very wicked.' I would reply: 'Yes, all men are very wicked.' He would reply: 'True, but the men of Trattenbach are more wicked than the men of other places.' I replied that my logical sense revolted against such a proposition. But he had some justification for his opinion. The peasants refused to supply him with milk because he taught their children sums that were not about money. He must have suffered during this time hunger and considerable privation, though it was very seldom that he could be induced to say anything about it, as he had the pride of Lucifer. At last his sister decided to build a house, and employed him as architect. This gave him enough to eat for several years, at the end of which time he returned to Cambridge as a don, where Clive Bell's son wrote poems in heroic couplets againt him. He was not always easy to fit into a social occasion. Whitehead described to me the first time that Wiltgenstein came to see him. He was shown into the drawing-room during afternoon tea . He appeared scarcely aware of the presence of Mrs Whitehead, but marched up and down the room for some time in silence, and at last said explosively: 'A proposition has two poles. It is apb.' Whitehead, in telling me, said : 'I naturally asked what are a and b, but I found that I had said quite the wrong thing. 'a and b are indefinable,' Wittgenstein answered in a voice of thunder.'
(掲載日:2006.12.13 更新日:2011.8.16)