バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

 バートランド・ラッセル平和財団に関するリーフレットには、設立時のスポンサーのリストや、財団の目的に賛成して外部者の立場で書かれたウ・タント(国連事務総長)の書簡が載っていた。私はそれ以前から、他の諸問題と同時に平和財団の計画についても彼と語り合うととともに、彼に手紙も送っていた。彼は心から賛成していたが、国連事務総長としての立場からスポンサーになることはできないと説明していた。けれども彼は、言葉遣いに注意しながらも激励する手紙(注:リーフレットに掲載したもの)を書くことを申し出てくれた。

That concerning the Bertrand Russell Peace Foundation gave a list of the then sponsors, and a letter that U Thant had written for the purpose on the outside. I had talked with him about our plans among other things and written to him about them. He had been warmly sympathetic, but explained that he could not be a sponsor because of his position as Secretary-General of the United Nations. He offered, however, to write the carefully worded but encouraging letter which we printed.
 出典: The Autobiography of Bertrand Russell, chap4:The Foundation,(1969)
 詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-100.HTM

 <寸言>
 1963年9月29日に「バートランド・ラッセル平和財団(BRPF)」創設の記者会見を開催することができ、ようやく、ラッセル及びその支援者による一部の限られたメンバーによる平和運動ではなく、より幅広い人々や関係機関と協力して、組織的に平和運動を継続してやっていく体制を整えることができた。
その後、各国にもBPRF(ラッセル平和財団)を支援する組織がつくられていった。
 日本においては、1965年1月20日に、早稲田大学において、日本バートランド・ラッセル協会の設立総会が開催された。その発起人は次の発起人一覧にあるようにそうそうたるメンバーであった。
  発起人一覧 http://russell-j.com/FOUNDER.HTM
 ラッセル協会は、協会規約第二条に「本会はバートランド・ラッセルの思想の研究、理解、普及を目的とし、あわせて世界の平和、および人類の幸福に貢献しようとするものである。本会は学会であつて、直接の政治活動を行なわないものとする。」とあるように、英国の BRPF と異なり、(個人として政治活動はしてもよいが)組織としては一切、政治運動をしないこととしていた。
そこで、BRPFを支援する団体として、別途、南原繁(元・東大総長)を委員長とするラッセル平和財団日本協力委員会が設けられた。
しかし、ラッセルがヴェトナム戦争に反対し、米国を非難し始めたために、ついていけない者があらわれ、短期間活動しただけで解散となった。
 一方、ラッセルは『ラッセル自伝』で書いているように、BRPF創設より前の、1963年4月の少し前から,ラッセルの時間や思考(考えること)が,しだいにヴェトナムで行われている戦争に奪いとられるようになっていった。
 日本においては、組織で活動することとなると、集団の圧力がかかり、できるだけ突出したことはやめておこうという(無言の)圧力がかかることがよくある。他人の目を気にする日本人独特の態度である。
 やはり、ここでも、ラッセルの平和運動に協力しようとしたのは,果敢に行動できる個人であった。当時長崎大学助教授(1928年長崎生れで、被爆者)をしていた岩松繁俊氏は、自宅にバートランド・ラッセルラッセル平和財団日本資料センターを設置し、日本中のラッセル平和財団賛同者・協力者・支援者に対し、BRPFから岩松氏に送られてくるBRPFの資料を(必要に応じて邦訳し)実費で配布する活動を始めたのである。