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電子掲示板の過去ログ(2004年)

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   2004年(2004年1月~12月12日まで)の過去ログ  「新→古」の順

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一と多の区別について 投稿者:Tarosa  投稿日:12月12日(日)02時44分53秒 YahooBB218137228214.bbtec.net

私の書いた「特殊な一例」は、超越論だったのですが、それでは数学的理論に拡張します。

「うそとはある地球人のうそである」

自然数の定義に使われた数学的帰納法の原理は容易に拡張できる。ある地球人=ある地球人

「地球人は全員うそつきです。」

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特殊な一例、その他 投稿者:松下彰良  投稿日:12月11日(土)21時47分59秒 p290a9a.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

ずっと以前、読書会(「ラッセルを読む会」)にも1級建築士の方がおられましたが、多忙のため2,3回出席されただけで、こられなくなりました。

 それはさておき、自己言及に関するパラドクスについて、一言。

 Tarosa さんがあげられている「特殊な一例」は、そのままでは自己言及のパラドクスになり
ません。詳しくは、三浦俊彦著『論理パラドクス』(二見書房)をごらんになってください。

 ★「地球に住む人間が言った。「地球人は全員うそつきです。」」

 ・「地球人は全員うそつきです。」がホントであれば、「話者」も地球人なので、この文は
  ウソでなければならず、矛盾するので、仮定が誤りであり、ホントではないことになります。
 ・しかし、「地球人は、全員うそつきです。」がウソであるなれば、「地球人は全員うそつき
   です。」ではない、ということになり、地球人のなかにはホントのことを言う人もいる、
   ということになります。「話者」の地球人には、ウソをつく人もいれば、正直な地球人も
   いる、ということで、★辻褄があいます★。
 ・従って、この「地球人は、全員うそつきです。」は、★この話者の場合には★、単純にウソ
  ということだと言うこともできますので、パラドクスではありません。

 ラッセルが発見した「ラッセルのパラドクス」は、論理的なパラドクスであり、下記のよう
に、もっと普遍的なものです。

 「ここに書いてあることは間違っている。」

 詳細は、三浦俊彦氏のパラドクス三部作をお読みになっていただければ幸いです。

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はじめまして。 投稿者:Tarosa  投稿日:12月10日(金)04時37分2秒 YahooBB218137228214.bbtec.net

私は、一級建築士の免許取得後、平成3年より哲学を独習してきました。確かに建築学と哲学は、直接関係がないとする一般的な見方もありますが、西洋建築を理解するためには、まず、西洋哲学をなんとか理解しなくては、フランスの前衛的建築を、結局、「形」を模倣することに終始してしまい建築学とするにはあまりにも幼稚な模倣物になってしまうと思ったからです。

哲学の独学は徒労に終わることが多いのではないか?

さらに、日本語に訳されるときに、概念も置き換えられる危険を感じながら哲学書といわれる本を買い集めてきました。多分、一人孤独な趣味だったら終わっていたと思います。終わらなかったのは、「建築学」を、教える立場の側に就いてしまった為でした。

私が簡単にできることが、なぜ、こんなにも沢山の人々を苦悩に陥れるのか?

その上、私が簡単にできることが、なぜ、文章に変換するとこんなにも意味不明で役に立たない文章になってしまうのか?

教える現場では「それは、センスだ。」と、私は、教わってきた。確かに教師達はできる。しかし、生徒はできない。この現実をどうすれば良いのか? 自問自答してきた。無我夢中のまま10年が過ぎた。

結論はでない。しかし、単純な計算や手続きに従ったAとかBとかの二者択一の答えは、簡単に教えられる。問題なのは、答えが無い問題に対してどのように対処すべきなのか。と、言う難問なのである。

全ての学問に照らして「確実に伝えられる」学問は「数学」だけだと、さらに数学は実践だと信じてきた、しかし、その数学を哲学的に再考するなかで不思議な疑問にたどり着いた。

「美人の集合」は集合論では扱えない。つまり、主観は最初から計算が外として切り捨てられていた。

建築学に於いても「美人」は鬼門である。それは同時にエネルギー源でもある。

この疑問は、さらに、「感情」がなければ「理論」が大量にあっても「決まらない」という。教える現場での困難と一致した。それが動機となり「ゲーデル」「カントール」「ラッセル」「ホワイトヘット」「クーン」等の残した本を読むことになった。

「無限を数える」

これほど魅力の有る概念は西洋哲学史でも味わうことはなかった。

「理論」とは、その「根拠」とは、「ある」のか「ない」のか?

この哲学的と言われる「ふんわりとした」くだらない幼稚な思考とも区別をつけてくれる先生をやっとみつけた。
「ラッセル」その人である。

廃墟の美しさを持続する西洋哲学に終止符を打つとすれば、「無限を数える」ことである。

これは、単なる学問ではなく、最近の「科学」と密接に関係している。「こころの科学」「認知科学」などは、その学問が完成されれば「哲学」など無用になると予想される。

しかし、「ラッセル」等の成し遂げた業績が単なる人為的な操作だと数学的に証明されれば、どうだろう。

現代その位置に居座る学者達にすれば、アインシュタインの相対性理論よりも重要だと思われる。

この「数学的矛盾」をどう理解するか?

以下に特殊な一例を記す。

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特殊な一例 投稿者:Tarosa  投稿日:12月10日(金)04時35分44秒 YahooBB218137228214.bbtec.net

地球に住む人間が言った。「地球人は全員うそつきです。」

上記循環理論。わたし的にかなり気に入ってしまった。

理由

私の記憶が正しければ、1950年代以降のアメリカ主義(グローバルスタンダード)の歴史をみればあきらかである。開拓者、冒険者精神がたどり着いた資本主義とは、イギリスの帝国主義を拡張した「バラックな帝国主義」である。裸の王様不在の都市を建設しヨーロッパ貴族社会が作り上げた虚構の権力を一般民衆に分け与えたのは、単に成り行き任せだったのだろう。

そうとも言い切れない。たった100年でヨーロッパをしのぐ帝国をつくりあげたのだから。

それは、単に国土の面積の比較では?

実は、科学技術力の差

日本の戦後の復興はたったの20年

アメリカのそれと比較するならば、5倍の速度を記録している。

科学技術力とは、つまり人間社会に置き換えると即効性となる。

1990年代「速さは力だ」とテレビCMで言い残したNEC「98」は2000年前に消えた。

確かに、科学力に慣れてしまうと「哲学」なんて、宙に浮いた根拠をもとに企んだ抽象論だと吐き捨てて「バカバカしくてやってられん!」と短気を起こすかもしれない。

しかし、好く考えよう。「私」に教えられるのは、「私」の他にない。

これからは、権力によって分けられた人種により、家畜をより明確に分別採取してゆく。

誰かが枝をつければ、誰かが枝を追いかける。

それも世界同時多発的に起こっている。

機械と競争して勝てるのか?

哲学者には、奥の手の「超人」の「超人」のための「超越論」があるではないか。

この「超越論」

地球に住む人間が言った。「地球人は全員うそつきです。」

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お役にたててうれしく思います  投稿者:松下彰良  投稿日:12月 6日(月)19時17分55秒 p6f81af.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

ドイツ哲学については、私は余り読んでいませんので、ドイツ哲学研究者にとって常識的な
ことでも知らないことが多々あるのではないかと思われます。それと同じように、

>> A>「坂本先生は、天才か馬鹿かのどちらかである」
>> この文章は正確ではない。正確に記述すると、
>> B>「坂本先生は天才である。」か「「坂本先生は天才である。」のではない。」
>> のいずれかである。
>> わたしは「なるほど!!」と眼からうろこ・・・

 哲学を全然勉強したことのない人であれば上記のような反応もあるのかなと思いますが、
哲学を勉強したことのある人が、そのような反応をすることは意外に思います。

 というように、お互いなじみのない専門分野や主題については、基礎的なことを案外理解
していないというのが現実だろうと思われます。

>>わたしは正確な文章を書くためにはラッセルの哲学を勉強しなくては!!と思い
>>百大氏の講義を聞いておりましたが「ド・モルガンの法則」などが出てくるあた
>>りから良く解らなくなってしまいました。

 「ド・モルガンの定理」などは、我々の時代??には、高校の数学の初歩ででてきており、
論理学の初歩というか、数学基礎論的なことは、我々の時代以後??のすべての高校生が学習
しているのではないかと思ってしまいますが、時代によって、学校によって?、そうでもない
かも知れないですね。集合論は、我々は?、高校の時に学習しましたが、行列の考え方は、習
いませんでした(大学に入って習うことでした)。しかし、大分前から「行列」は、高校から
習うことになりました(と思います)。

 三浦さんの『論理学がわかる事典』は、大変わかりやすく、論理学を勉強したことのある人
でも、振り返ってみるにはよい参考書だと思います。

 坂本百代先生がでてこられたので、つい余分なことを書いてしまいました。//

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ありがとうございます。 投稿者:黒猫館館長  投稿日:12月 6日(月)01時40分52秒 d61-11-159-239.cna.ne.jp

松下様、レス並びにラッセル入門のご案内、誠にありがとうございます。

わたしとしてはまず一番わかりやすいらしい『倫理学がわかる事典』を
読んでみようと思います。

ところでわたしがラッセルに興味をもったのはもうずっと昔、論理学の
世界では有名らしい「坂本百大」氏の講義を受けた事がきっかけです。

百大氏は第一回目の講義でラッセルの哲学の素晴らしさを一通り話した
あと、いきなり黒板に次のような文章を書きました。

A>「鈴木君は天才か馬鹿かのどちらかである」

百大氏は「この文章は正確ではない」といい次に

B>「鈴木君は天才かそうでないかのどちらかである」と書きBの文章
が正確である、といいました。わたしは「なるほど!!」と眼からうろ
こが落ちる思いでした。確かに鈴木君は天才であるかもしれないし馬鹿
であるかもしれないし、はたまた秀才であるかも知れないし、凡人であ
るかも知れないのです。つまりどうみてもAの文章は正確ではないわけ
です。わたしは正確な文章を書くためにはラッセルの哲学を勉強しなく
ては!!と思い百大氏の講義を聞いておりましたが「ド・モルガンの法
則」などが出てくるあたりから良く解らなくなってしまいました。

今後はまずこのHPでラッセルの生涯について学び、次に哲学を学ぼう
と思っております。それでは今後ともよろしくお願いします。

https://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html

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RE 初めまして 投稿者:松下彰良  投稿日:12月 5日(日)16時29分17秒 p6f81af.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 黒猫館のホームページをざっと見せていただきました。
 
 「黒猫館」の管理人さん(館長さん?)は、自己紹介をそのまま受け取りますと、日本語が
堪能なドイツ人あるいは、トイツ生まれでトイツ育ちの日系ドイツ人であるように思われます
が間違いないでしょうか?
 
 「館長さん」は、ドイツ哲学を専攻されており、それをベースにおきながらも、自分が好き
な・あるいは関心をもついろいろな世界を浮遊する「哲学及び人間探求者兼趣味人」であられ
るようです。
 そのような方が、ラッセルの哲学のどの部分に興味をもたれたか不明であり、また私は論理
学や数学の専門家ではないので、どのように応えれば、お答えになるかよくわかりませんが、
とりあえず、以下のようにお答えしておきます。

 ラッセルの論理学やそれを基礎とした「理論」哲学を専門的に取り扱う・理解するためには、
現代論理学(記号論理学)の訓練を受ける必要がありますが、そうでない限り、たとえば、下
記の三浦俊彦氏の一連の入門書を精読して理解できれば、ラッセル哲学(主として認識論・知
識論、存在論、科学哲学等)をかなり理解できると思われます。

 それから、私の場合で言いますと、高1の前半位までは数学が一番できましたが、高校1年
の後半からは、できるだけいろんな勉強をしようということで、数学の勉強をほとんどしなく
なってしまい、どんどん成績が落ちてしまいました。ただし、数学的な考え方のセンスはもっ
ていると思いますので、それでまあいいだろうと思っています。(中学の時は、数学は学校で
1番だったので、高校以降も勉強していたら、今のように苦労をしなかったかも知れないと、
若い頃は時にふれて後悔しましたが・・・。)
 
================================
・論理学入門のための入門書(入門の入門)
 『論理学がわかる事典』(日本実業出版社)https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ronri-j.htm
 *これ以上わかりやすく書けないというほど、平易に書かれています。

・現代論理学の入門書
 『論理学入門』(NHKブックス)https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/con-ron.htm

・パラドクス三部作(いずれも二見書房刊)
 1)『論理パラドクス』https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/puzzle.htm
 2)『論理サバイバル』https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/puzzle-2.htm
 3)『心理パラドクス』https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/puzzle-3.htm

・その他
 『可能世界の哲学』(NHKブックス)https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/con-kano.htm

 これらを読んだら、『私の哲学の発展』(みすず書房)を読まれ、ラッセル哲学の変遷・発
展をザット頭にいれてから、興味をもたれるラッセルの諸著作を読まれることをお勧めします。

 以上、余りお答えになっていないかも知れませんが、参考まで。

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初めまして。 投稿者:黒猫館館長  投稿日:12月 5日(日)08時14分35秒 d61-11-159-136.cna.ne.jp

初めまして。サイト「黒猫館」の管理人をしている者です。

もう十年以上前、大学で「論理学」の講義を受けた時にラッセルの名前を
知りました。その時は難しすぎてよく解らなかったのですが最近、また興味
が湧いてきました。そこでラッセルの哲学を理解するのにはやはり数学がで
きないと駄目なのでしょうか?また難解な「論理式」を計算しなくてはなら
ないのでしょうか?まことに恥ずかしながら初心者としてご教授いただけた
ら幸いです。
https://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html

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ありがとうございます 投稿者:斎藤幸平  投稿日:11月14日(日)17時55分58秒 6.134.150.220.ap.yournet.ne.jp

わざわざありがとうございました。そうだったんですか?僕が図書館で借りて読んだのは、ちょうど日高さんのものでした。春になって時間ができたら原文で読もうと思います。僕はラッセルの英語の文章を読んで、英語がほんとに好きになり、またラッセルのことも本当に尊敬しています。

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RE はじめまして 投稿者:松下彰良  投稿日:11月14日(日)10時24分44秒 p290a94.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

斉藤幸平さま

 該当の部分の原文は、以下のとおりです。これは、1961年に刊行された Has Man a Future?
の最終章(Chap. 11: A stable world)冒頭の段落です。
 この本が出版されてすぐ(9月)に行われた反核デモを首謀した罪で、1週間の懲役刑(実際
は1週間病院に軟禁)を受けています。
 なお、日高訳「人類に未来はあるか」(理想社刊)は誤訳が少なくないので注意してください。

'I am writing at a dark moment (July 1961), and it is impossible to know
 whether the human race will last long enough for what I write to be published,
 or, if published, to be read. But as yet hope is possible, and while hope
 is possible, despair is a coward's part.'

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 ラッセル年譜より
 1961(89歳)[昭和36年]
 ・百人委員会を結成し、委員長となる。
 ・2月18日、英国の核政策に抗議するトラファルガー広場における2万人の大集会
 ・9月、百人委員会、国防省前に座り込み。
 ・9月12日、2ケ月の懲役の判決(後に1週間に減刑)
 ・10月29日、トラファルガー広場で「市民不服従」の大集会
 ・11月、ブリクストン刑務所付属病院に一週間拘束される。
 ・12月9日、英国全土の核兵器基地と米軍基地への5万人の抗議デモ
 ===================================
 
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はじめまして 投稿者:斎藤幸平  投稿日:11月14日(日)00時29分6秒 6.134.150.220.ap.yournet.ne.jp

初めて書き込みます。僕は今高校三年で、エッセイのテーマをラッセルにし、書いています。今、英語に直しているのですが、「人類に未来はあるか?」の「私は今、暗がりでこれを書いているが、人類は果たして、この書が出版されるまで、生き続けてくれるかどうか知りがたい。しかしまだ望みはある。望みのある限り、絶望は弱虫のすることだ。」という部分の原文を教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

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暖かい言葉、ありがとうございます。 投稿者:松下彰良  投稿日:11月 8日(月)19時15分47秒 p290a94.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

サトウ様

 あたたかいはげましの言葉、ありがとうございます。

 英語(外国語)ができる・できないと簡単に世間の人は言いますが、日常会話なら別ですが、
思想家の発言や文章の場合は、その思想家の育った環境(時代、社会環境、その他)やその思想
家が関係している主題についての基礎的な知識はどうしても必要です。
 少し英語ができる(と思っている)人は、必要な調査をせずに、思いこみで邦訳することが少
なくありません。特定分野の専門家でも、予想外に一般常識がなかったり、女性なら常識的なこ
とでも男性にとっては常識ではなかったり、とにかくそれなりの人物の著作の邦訳は難しいと思
います。ラッセルはごく専門的な論文でない限り、できるだけ易しいコトバを使いますので、簡
単に考えすぎることがあったりします。
 英語ができるといっても、(長い間海外で生活してない限り)(論理的でない)日本語では表
現できないが、英語なら表現できるということはないはずです(そのように言う人が時々います
が)。世間であの人は英語ができるといっても、日本語ができない人は、多分まちがったコミュ
ニケーションをずいぶんたくさんしているだろうと想像します。

 今後とも気がついたことがあれば、ご指摘ください。

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初めまして 投稿者:シバタ  投稿日:11月 8日(月)19時02分34秒 zaq3d7d7e5c.zaq.ne.jp

みなさま初めまして。
ラッセルの本を読んでみたいと思うのですが、今まで接する機会がなかったので
どのような本があるのかすら分かりません。
もしよろしければお勧めの入門書のようなものを教えて頂けないでしょうか?

出来れば手に入れやすい本が嬉しいですが、もし手に入れにくくても内容が良いと言うのなら
探してみたいと思います。
お答え頂ければ幸いです。それでは

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Re^2 2004.11.05」の更新記事:追加 投稿者:サトウ  投稿日:11月 7日(日)23時43分22秒 i220-220-226-58.s02.a013.ap.plala.or.jp

「ここは競争の場ではないので、今後はフライングも楽しみにしています^^」事実と意見を混同するのは、もちろん学問的には、つまり、ラッセルについて正確な知識を得るには許されませんが、私のちょっとした気持ちです。

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Re^2 2004.11.05」の更新記事 投稿者:サトウ  投稿日:11月 7日(日)23時23分42秒 i220-220-226-58.s02.a013.ap.plala.or.jp

松下さま

いろいろと調べられるのは手間が掛かるでしょうが、実は松下さんの注は、諸々の背景情報を知るのに大いに参考になります。『ラッセル自叙伝』の誤訳を見ても、翻訳というのはリサーチがいかに大事かよく分かります。ここは競争の場ではないので、今後はフライングも楽しみにしています^^

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Re 2004.11.05」の更新記事 投稿者:松下彰良  投稿日:11月 6日(土)10時09分31秒 p290a94.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

サトウ様
 コメントありがとうございます。

 サトウさんが言われるように、「なぜなら」を入れておいた方が自然なので、そうさせてもら
いました。

 ところで、「部分と全体」および「ハッピーエンド」についての注の書き方へのご意見です
が、サトウさんがかかれているような疑問を持つ人も他におられるだろうと思いますので、下
記のように修正させていただきました。(該当部分の単なる訳注と、訳注以上の追加説明とを
混在させたことがまずかったと考えています。

=====================================
*松下注2:社会(=国家その他)と個人が対立する(利益が相反する)場合は、ラッセルは、
常にといってよいほど、「個人の尊重」の立場に立つ。ここでは、もちろん2004年11月5日付
の掲示板への書き込みにあるように、「将来を思い煩うのではなく、日々の生活を有意義に過
ごすべきである。なぜなら、人生の全体は日々の積み重ねだから。」といった意味合いである
が、ラッセルが多くの著書で言っているように、「部分よりも全体の強調」は、全体主義国家
観、偏狭な愛国心、個人の自由や幸福を犠牲にした公共の利益・福祉等々に、密接に関係して
いる。
*松下注3:ハッピーエンド(でなきゃいや)症候群;シンデレラ症候群/現実を直視しない人、
いやなものからできるだけ目を背ける人は、ハッピーエンド症候群にかかっている人が少なからず
いると思われる。
=====================================

 単なる訳注だけでなく、関連するラッセルの考え方や自分の感想を挿入したいために、これか
らもフライング気味になるかもしれませんが、直接の説明、関連した説明、自分の意見や感想は
できるだけ、わけて書くように注意しようと思います。  (松下)

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「2004.11.05」の更新記事:補足 投稿者:サトウ  投稿日:11月 5日(金)23時22分3秒 i220-220-226-58.s02.a013.ap.plala.or.jp

「行間を読む」とは言いますが、「部分に価値があるのでなければ、全体に(も)価値はありえない」の前に、接続詞「なぜなら(Because)」を補って考えてみればいいのでは。

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「2004.11.05」の更新記事 投稿者:サトウ  投稿日:11月 5日(金)23時07分36秒 i220-220-226-58.s02.a013.ap.plala.or.jp

いつも(every dayではなくalways)更新楽しみにしております。ちょっと引っかかった箇所がありましたので投稿しました。更新記事の「部分に価値があるのでなければ、全体に(も)価値はありえない」に対して「*松下注2」としてコメントされていましたが、私はもっと素朴に「将来を思い煩うのではなく、日々の生活を有意義に過ごすべきである。なぜなら、人生の全体は日々の積み重ねだから。」と解釈しましたが、いかがでしょうか?それと、次の行の「人生は、ヒーローとヒロインが、信じられないような不運(逆境)を乗り越え、最後にはハッピーエンドで報われる、といったメロドラマの類推で思い描かれるべきではない」というくだりは、ここでは「現実逃避」ということとは関係なく、そもそも人生に悲劇というものはないのだから、ハッピーエンドで終わるようなメロドラマを人生に期待する必要はない、といっているように思えるのですが。。。

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RE 松下様 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月19日(木)20時00分25秒 p6f81f5.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 幾多郎さま

>スペルの間違いも少しありますので、後日、郵便にて訂正したものをお届けします。お待ち下さい。

 よろしく御願いします。  松下

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松下様 投稿者:幾太郎  投稿日: 8月19日(木)13時35分40秒 gd053068.gd.kcv.ne.jp

松下様、The harm that good men do の原文のご紹介ありがとうございました。スキャナーで読み込み中に若干の間違いがあるようです。主として、カンマ、ピリオド、アポストロフィ等で、大意にはほとんど影響はありませんが、スペルの間違いも少しありますので、後日、郵便にて訂正したものをお届けします。お待ち下さい。ありがとうございました。

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追伸 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月15日(日)23時28分23秒 pddfac3.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 パンドラさんは哲学関係のいろいろな掲示板に出没されているようですが、私はよその掲示板はほとんど見ていません。三浦さんの掲示板さえも(たまに読むことはあっても)ほとんど読んでいません。 ですから、横井さんといわれても知りません。

>ちょっと気になるのは ・よ・う・に・見・え・る というのはルビンに関して
>「それは盃図である。」 とするのは偽!ということではないでございますよね?

 もちろん偽ではありません。ただし、作者がたしかに顔図を描き、視覚異常でないすべての人に顔図に見えるが、ごく一部の視覚異常者には「盃図」に見えるというた場合、「「それは盃図である」というのは偽である」、といえないこともありません。しかし文化が違えば、「盃図」は「キャビア用容器である。」(のように見える)ということもありえますので、いちがいに偽ともいえません。

>うーん、たぶんこれは論理と心理の混同とは、異なるものとおもいます。

 論理と論理以外のものといったほうがよいかもしれませんが、おおざっぱにいって、論理と心理との違いといってもまちがいではないように思われます。

 以上、追伸でした。

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松下さま 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月15日(日)23時03分37秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

もしかして、松下さまは、こちらの横井さまの影響を受けていらっしゃるのでしょうか?
>「それは盃である。」ように見える。(A.「ただし」・・・のパースペクティブで見たら。
https://www6.plala.or.jp/swansong/000005tetugakumokuji.html
わたくし読もうとしましたが、ちょっとボリュームに圧倒されておりました。

ちょっと気になるのは ・よ・う・に・見・え・る というのはルビンに関して「それは盃図である。」
とするのは偽!ということではないでございますよね?
>この場合、但し書きが重要です。

うーん、たぶんこれは論理と心理の混同とは、異なるものとおもいます。

この議論の発端は、わたくしが命題的態度の質について感想を求めたものに対して、
φさまが排中律を引き合いに出して、此れに応じてくださったことにあります。
φさまは、たぶん陰で笑っていらっしゃるのだと存じますが、わたくしと松下さまの議論は
実質的に、命題論理の公理に排中律を持ち出すか否か、の議論
つまり、直感主義と形式主義の論争に他ならないと思っております。
わたくしが命題的態度を持ち出して、ちょっと脚色したわけでございますね。
『松下さまの真珠』-人工知能M-1号に、ちょっと絡んでしまいました、おゆるしくださいませ・・・。
https://wagesa.cool.ne.jp/music/j-folk0/romanoame.html

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見えの世界(論理と心理) 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月15日(日)11時03分46秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 「普遍」ということばの定義の前に、「ルビンの顔図」を見て定立される命題についてもう一言。

 「ルビンの図」を見て、「それは盃である。」とか「それは顔図である。」(ルビンの図=盃: 等号で結ばれている。)といっても、絵そのもの(全体)が一つの命題で表される(完全一致)するものではありません。
 正しく言うとしたら、次のようになると思います。

 「それは盃である。」ように見える。(A.「ただし」・・・のパースペクティブで見たら。
 「それは顔図である。」ように見える。(B.「ただし、・・・の・・・で見たら。)

 この場合、但し書きが重要です。
 「ルビンの図」はいろいろに見えるかも知れないが、但し書きAのパースペクティブでみたら「酒盃」に見えますね、と言えば、(「酒盃」というのはこういうものであるという共通理解がある限り、)みんな「酒盃」に見えるはずであり、「顔図」には見えないはずです。(但し書きBのパースペクティブでは見ていないのですから・・・。)

 それからたとえばギリシアでは「酒盃」として使っていたものとほとんど同じ形をしたものが、○×時代の△△という地域(国その他)では、「キャビア」の盛りつけ専用の容器として使われており、「ルビンの図」を見せられると、「それはキャビア用の盛りつけ容器である。」(ように見える)と言うかもしれません。それは「見え」の世界のことですから、何の矛盾もありません。
 
 地域や時代によるとらえ方の違いをいわなくても、実際、1枚の絵や写真について、無数の言明・命題をつくることができます。しかし「・・・である。」ということは言えず、あくまでも「「・・・である。」ように見える。」としか言えません。(もちろん、この図は黒と黄色の2色の絵の具を使ってかかれている、というような言い方はできます。)二律背反(アンチノミー)の問題がどうして出てくるのか理解できません。(論理の問題と心理の問題の混同はさける必要があります。)
 「ルビンの図」はこれぐらいにして、「普遍」の定義について一言。

 パンドラさんが「普遍」の定義を、「いつでも、どこでも、だれにでも」とされていますが、私も特に異論はありません。「普遍」という言葉は、日常的には必ずしも厳密な意味では使わず、TPOによって意味内容を変え、少しルーズに使っています。
 ところで、「いつでも、どこでも」はよいとして、「だれにでも」という場合、パンドラさんは、これまでに生まれ死んでいったまたこれから生まれてくる「人類」全体を指して言われておられるのでしょうか? それとも人類に限定せずに、普遍者(全知全能の神のようなものを想定)を考えておられるのでしょうか? この地球上では現在、進化論上、人間が最も高度に知的発達をとげた生命体ですが、10万年後には、この地球上に、人類とは言えない、さらに高度な生命体が突然変異でもなんでもいいですが、生まれた場合、それらの生命体も「だれにでも」の範疇にいれる必要がある(あるいはない)とお考えでしょうか? 人間とゴリラやボノボとの知的能力の差はかなりのものがありますが、遠い将来、人間とその後に出てくるより高度な生命体との知的能力の差もかなりのものがあるかもしれません。「普遍」「普遍」といいながら、一方「人間の意識」に必要以上こだわるのは、少し矛盾しているような気がしますが、気のせいでしょうか? 
 
 われわれは人間ですから、人間としての限界はさけようがありません。しかし、可能なかぎり、論理の問題と(人間特有の)心理の問題との混同はさけたいと思います。何を考えるにしても人間の立場で見たり考えたりするわけですので、限界はありますが、人間にばかりこだわらずに、人間を含めた全生物、ロボット、その他それらを含んだ世界や宇宙について、いろいろ、空想も含めて、考えていきたいと思います。

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松下さま 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月14日(土)23時56分39秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

>「それは盃である。」に対し、
>「それは顔図である。」は、「それは盃である」の否定が含まれているので、二律背反で
>あると言われるのでしょうか? それは少し苦しいですね。
おそらく、わたくしとは『普遍』に対する、定義が幾分異なっているのかもしれませんね。
わたくしの考えるものは「いつでも、どこでも、だれにでも」等しく判断される命題を設定
することを、普遍的定義と、しております。
意識は事実世界を「現在と過去、そして未来」に設定しますが、五感が捉える感覚に
よって与えられるものを知覚して、『今(現在)』の事実命題をつくる、と考えます。
『ルビンの壷』は、視覚によって与えられるものは、ひとつの感覚です。
今、意識がそれを盃とらえ、次に意識が同じ感覚対象を顔図とするなら、わたしが
考える普遍定義、「いつでも、どこでも、だれにでも、同じ」に抵触する、と考えました。

命題論理の式の真偽は普遍的であることが、前提ですから、ルビンの図の場合、その
認識は個別者による制限を受ける、つまり、『命題的態度』を無視できない部分があると
考えたのですが、松下さまの『普遍』の定義は、どのようなものでございますか?

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RE 原文を探しています  投稿者:松下彰良  投稿日: 8月14日(土)20時53分55秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

幾多郎さん

 お探しの The harm that good men do の電子テキストは、まだインターネット上には
アップロードされてないようです。
 下記のURLに、スキャナーで読み込みHTML化したものをあげておきました。誤変換
などある場合は教えてください。

 https://russell-j.com/0393HGMD.HTM

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二律背反? 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月14日(土)16時15分24秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

>Pが『ルビンの壷』に対する認識としての命題であるとき、すくなくもパンドラとして
>の『わたし』が、判断すれば、「それは盃である」か、「それは顔図である」が二律
>背反で、いずれかを選択しています。

 ルビンの図が与えられた場合、どうして「それは盃である。」という命題と「それは顔図
である。」という命題が二律背反になるのでしょうか? ルビンの図は有名(論理学ではな
く心理学で、即ち論理の問題ではなく心理の問題/人間の感覚の問題)ですので、見方に
よって2つに見えると多くの人が知っているわけですが、3つに見える図をつくることもで
きます。
 「それは盃である。」に対し、
 「それは顔図である。」は、「それは盃である」の否定が含まれているので、二律背反で
あると言われるのでしょうか? それは少し苦しいですね。
 命題ではなく、1枚の図、写真などの画像については、無限の命題をつくることができるで
しょうから、それをどのようにして排中律の問題とからめることができるのかよくわかりませ
ん。正直いって、パンドラさんが何を問題にしようとしているのか、いまひとつよくわかりま
せん。
 なお、知能ロボットはもちろん私が例にあげたものですが、「パンドラさんが想定する・・
・」と書いたのは、「「これは、向き合った人の絵である」か「これは酒盃の絵である」のいず
れが真か、判断」することができる(限定付きの)ロボット=パンドラさんの言うことを確かめ
られるロボット」、ということでそのように書いたしだいです。

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松下さま 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月14日(土)08時56分19秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

今、議論されていることは、別に人工知能にこだわると言うことではありません。
人工知能は、命題を普遍的に判断する象徴として、あなたがだされたものです。

与えられた命題の『認識』つまり、肯定または否定の判断が、普遍者によって
なされる、ということが妥当かどうかの問題です。
φさまが、はじめに出された
>「P∨~P」が真かどうかは、判断の主体ごとに変わる偶然の問題になって
>しまい、排中律が意味を失ってしまいますね。
Pが『ルビンの壷』に対する認識としての命題であるとき、すくなくもパンドラとして
の『わたし』が、判断すれば、「それは盃である」か、「それは顔図である」が二律
背反で、いずれかを選択しています。
わたくしは個別者であり、普遍者ではありませんから、それが可能ですが、普遍者
の認識ではどうなるか、ということです。
普遍者の判断では、このケースの場合、排中律が無意味なものになっているの
ではないか、と懸念しているのでございますが・・・。

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人口知能ロボットM1号? 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月13日(金)20時41分24秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

パンドラさま

 この1,2年の間にロボット工学及び技術は急速に発達しましたが、それでもパンドラさん
が想定する、画像認識能力と論理演算能力を(バラバラでなく)同時に高度に備えた知能ロボ
ットを開発するには、まだかなり年月がかかると思われます。
 即ち、人間の五感能力を一つ一つバラバラにロボットにもたせるのはそれほど難しくないで
すが、たとえば視覚と聴覚と触覚の3つの感覚を連動して動かし同時に論理判断が可能な知能
ロボットの開発はやさしいものではないと想像されます。

 1.「これは「向き合った人の絵」である。」 → 1a「これはAである。」
 2.「これは「酒盃の絵」である。」     → 1b「これはBである。」

 1枚の図(写真)を見て、ここに描かれて(映って)いるものは、AかBか判断できなくて
はいけませんが、人間の場合も、生まれてからこれまでに非常に多くのものを観察し、大脳に
厖大な量の画像等を蓄積しています。そのような過去の膨大な情報の蓄積(数万人の顔、何千
もの陶器、何百の酒盃、多数の向き合った顔の映像、・・・等々)があってはじめて、上記の
1や2の文(言明)を理解することができるようになります。
 ロボットだって、人間と同じような認識や判断ができるようになるためには、何ギガバイト
どころか、何テラバイトといった膨大な情報(視覚-、聴覚-、触覚-、嗅覚-、味覚-)を
蓄積する必要があります。それらの情報は言葉や文や命題とリンクしないといけませんので、
それらの(画像と言葉との)組み合わせは天文学的な数字となります。
 ですから、ヒューマノイド型のロボットでそのような能力をもったものを製造するのは大変困
難ですので、(手足がなく、味覚や臭覚もない、)視覚能力と論理演算能力がすぐれている「人
口知能ロボット」を想像することから始めないといけないだろうと思われます。
 このようなロボットがいつ頃できるか想像できないですが、1,000年後でもいいですから、幼
稚園児位のレベルのものができたと想定すれば、その「意識のない知能ロボット」は、(人間に
よる操作なしに)命題をつくり、真偽判断をおこなうことが可能ではないか、と想像します。

 ただし、「ルビンの図形」を見せられた人口知能ロボットM-1は、
 「これは向き合った人の絵である。」といい、

 人口知能ロボットM-2は、
 「これは酒盃の絵である。」と答え、

 さらに優秀な人口知能ロボットM-2改良型は、
 [ある視点からみれば、「これは向き合った人の絵である。」といえるが、また別の視点で
 は、「これは酒盃の絵である。」と言える]、という判断を下すかもしれません。

 これまでの経験や論理判断能力の向上によって、人間でもロボットでも、同じ刺激に対する
反応は変わってきて当然だろうと思われます。

 ま、とりあえずまったく荒唐無稽なものでもなさそうというレベルにしておきたいと思います。

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松下さま 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月13日(金)08時47分25秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

お相手ありがとうございます。
>(例)意識のない知能ロボット(学習機能付き)に命題を機械的につくらせ、その真偽判定を
    させるとか・・・?!  ← 人間の作ったプログラムというものが介在しますが、
                  これまでに誰もが考えたことにない命題をつくることは
                  できると思われます。

斯様なロボットに、『ルビンの図形』をみせて
「これは、向き合った人の絵である」か「これは酒盃の絵である」のいずれが真か、判断させる
のはおもしろそうですね。
人工知能-M1号は、どのように答えるとお考えですか?

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>命題≠言明 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月13日(金)07時59分25秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

φ さま、お久しぶりです。
>たとえば、「P∨~P」の中のPと~Pは、誰の判断からも独立した裸の命題としな
>ければ、恒真となりません。Pを「火星に生物がいた」とすればおわかりでしょう。
このへんは、おっしゃるとおりですね。
「現在のフランス国王は、禿げである」は偽であっても、もしaにおいて
「『現在のフランス国王は、禿げである』と信じる」を命題とするなら、此れを判断する
のはどの意識においてか、という命題的態度の真偽も、あてどもなく階層を重ねる
ことになってしまいそうです。
前回、わたくしの『怨念』モデルを披露するまでにいきませんでしたが、これには
命題的態度を使用しています。
ただし、不用意にこの議論を展開すればφ さまのご指摘のような、命題の質に
関する基礎があいまいなものになりそうでしたので、その辺の思考をめぐらせて
おりました。
休むに似たりの愚者の陳述、おゆるしくださいませ・・・。

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RE ありがとうございました  投稿者:松下彰良  投稿日: 8月12日(木)19時15分33秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

φさん、書き込みありがとうございます。
 パンドラさん、ご返事が遅れてすみません。
 
 ご存知だと思いますが、ラッセルは、すべての陳述(言明)が命題になるわけではなく、
複合文であれば最小単位に分解(分子命題を原子命題に分解)し、真か偽か決まる言明のみを
命題と考えます。
 ですから、 「『現在のフランス国王ははげである』と信じる」 という陳述のなかの『現
在のフランス国王は禿である』は分子命題ですので、分子命題のかたまりのまま論じることは
ラッセルはしない(好まない)と思われます。

>一般の命題は、やはり真偽判定の対象であり、となれば、すべて命題と言われるもの
>は、何らかの意識aにおいてなされるのではないかと考えられます。

 なにごとも個々人の「意識」に出発点をおきたがる人が少なくないように思われますが、
それは、「論理学」の命題といえども「意識」の前提がなければ存立しえない、すなわち主
観の入らない客観的なもの(学問、思考、その他)は存在しえない、ということを主張した
い、あるいはそのようにしか考えられないためでしょうか?

 φさんは、排中律の例をだしてくださいましたが、φさんの言うとおりだと思いますが、私は
論理学については(も)素人ですので、これについては、お二人で議論してください。
  
 命題の定立や命題の真偽判定が、特定の人間(個人)の意識を離れて可能である例がだせれ
ばよいのですが・・・。
 (例)意識のない知能ロボット(学習機能付き)に命題を機械的につくらせ、その真偽判定を
    させるとか・・・?!  ← 人間の作ったプログラムというものが介在しますが、
                  これまでに誰もが考えたことにない命題をつくることは
                  できると思われます。  
   この例は、ちょっと苦しいでしょうか?

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原文を探しています 投稿者:幾太郎  投稿日: 8月12日(木)15時21分25秒 gd053068.gd.kcv.ne.jp

 ラッセルの“Sceptical Essays”という著書の中に、“The harm that good men do”という短い一文があります。その原文がオンラインでどこかのサイトにそのまま載っていないかと探しています。どなたかご存じの方、教えてください。

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命題≠言明 投稿者:φ  投稿日: 8月12日(木)03時08分45秒 210-20-55-94.rev.home.ne.jp

 An Inquiry into Meaning and Truth を読み直してみないと何ともいえませんが、命題は本質的にすべて命題的態度、といった見方はラッセルは好きでないはずです。
 命題は必ず誰かの判断の中で生ずるもの、というのは、一時期ラッセルの天敵だった日常言語学派寄りの見方だと思われますが、論理学と相容れません。たとえば、「P∨~P」の中のPと~Pは、誰の判断からも独立した裸の命題としなければ、恒真となりません。Pを「火星に生物がいた」とすればおわかりでしょう。「P∨~P」が真かどうかは、判断の主体ごとに変わる偶然の問題になってしまい、排中律が意味を失ってしまいますね。

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ありがとうございました 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月11日(水)06時29分50秒 adsl219122107047.ucatv.ne.jp

ふつつかながら、ラッセルに関していまひとつ、お伺いできれば幸いです。
「『現在のフランス国王ははげである』と信じる」は、それが命題的態度とすれば、
それは、意識aにおいて行われるわけです。
一般の命題は、やはり真偽判定の対象であり、となれば、すべて命題と言われるもの
は、何らかの意識aにおいてなされるのではないかと考えられます。
命題は、其の本質において『命題的態度』としての性格を払拭できないともおもわれる
のですが、ラッセルに斯様な記述はあるでしょうか?

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RE ご無沙汰しておりました 投稿者:松下彰良  投稿日: 8月10日(火)18時26分49秒 p290dad.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 4日から本日まで(夏休みで)帰省しており、ご返事が遅れ失礼しました。

 幸いにも♂さんがコメントをしてくださり、ありがとうございます。

 不勉強のため、♂さんの的確かつわかりやすいコメント以上の情報も意見も持ち合わせていません。頼りにならなくてすみません。

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訂正 投稿者:♂  投稿日: 8月 8日(日)00時26分9秒 210-20-55-94.home.ne.jp

 ↓間違えました、「フランス大統領」→「フランス国王」

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命題的態度 投稿者:♂  投稿日: 8月 8日(日)00時23分37秒 210-20-55-94.home.ne.jp

 志向性を表す心的動詞(信じる、希望する、恐れる、夢見る、知る、等々)の目的語として命題があるような場合は、すべて「命題的態度」と総称してよいと思いますが。例外はおそらくありません。
 命題という抽象的実体を項として(目的語や主語として)とることができる、というラッセルの容認が、項としての「フランス大統領」「ハムレット」等を否定したラッセル記述理論との関連で興味深いのだと思われます。

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ご無沙汰しておりました 投稿者:パンドラ  投稿日: 8月 7日(土)07時34分36秒 adsl219122107106.ucatv.ne.jp

前回は、その折、対応いただきまして、ありがとうございます。
φさまとは『怨念』で途中で滞ってしまいましたが、ふと気がついて、そういえば
ラッセルには『命題的態度』との術語があったことを思いだしました。

命題は普遍的真理値をもつ枠組みとして、普通、特定の意識を前提とすることは
ありません。
「彼は約束を守る」などは真偽または、未来の事象であれば、可能の中で語られる
べきものと思います。
一方、特定の意識を前提として「『彼は約束を守る』とわたしは信じる」
は命題的態度、といってよいのかと解釈しております。ところで、『信じる』を可能命題
とするなら・・・
「『彼は約束を守る』とわたしは希望する」ならば、これは価値の中で語られた命題であり
これも命題的態度、と呼称してよいのかどうか迷っております。

つまり、『命題的態度』という術語が業界で確立されたものとして、わたしのような
特定の意識a において任意になされた命題の判定(一般、可能、価値を含む)
である、のようなこの術語の使用は許されるのかどうか・・・。
ついでですが、この原子命題の階層を一段上げた表現も真理値を持つ命題と解釈して
おります。

いくつかの参考文献は見ているのですが、なんとも確定的でないようにも感じております。
煩わしいと存じますがコメントをお願いできるでしょうか・・・?

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ありがとうございました! 投稿者:yukiyamasamu  投稿日: 7月20日(火)12時18分57秒 center.juen.ac.jp

丁寧に教えていただきありがとうございました。
ラッセルについて不勉強なもので何かとわからないことが多々あります。
できましたら、また教えてくださいお願いします。

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Re 教えてください!!  投稿者:松下彰良  投稿日: 7月19日(月)18時07分28秒 p6e4d3b.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 まずお断りしておかないといけないのは、牧野先生の『ラッセル思想辞典』は、ラッセルの
文章を逐語的に訳したものではなく、要旨訳となっているところがかなりあります。したがっ
て、逐語的に見ていくと、訳がおかしいと感じられるところもあると思います。
 「思考の独立性(自立的思考)」の原文は independence of thought ですが、牧野先生の
訳では「思考の独立性」となっていましたが、わかりにくいので、「・・・(自立的思考)」と
いう言葉をおぎなっておきました。
 ちなみに、該当する原文は以下の通りです。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. 
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the
teacher knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favour
of the teacher unless he is a very exceptional man. Yet the habit of passive
acceptance is a disastrous one in later life. It causes men to seek a leader,
and to accept as a leader whoever is established in that position . It makes
the power of Churches, Governments, party caucuses, and all the other
organizations by which plain men are misled into supporting old systems which
are harmful to the nation and to themselves. It is possible that there would
not be much independence of thought even if education did everything to promote
it; but there would certainly be more than there is at present. If the object
were to make pupils think, rather than to make them accept certain con-clusions,
education would be conducted quite different]y : there would be less rapidity
of instruction and more discussion, more occasions when pupils are encouraged
to express themselves, more attempt to make education concern itself with matters
in which the pupils feel some interest.

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教えてください!! 投稿者:yukiyamasamu  投稿日: 7月19日(月)16時50分4秒 center.juen.ac.jp

すみません教えてください。
https://russell-j.com/beginner/SIKO-D.HTM
にて掲載されている「思考の独立性(自立的思考)」は、原文で何と訳されているのでしょうか?
研究の参考に是非させて頂きたいので、お手数ですが教えてください。
https://russell-j.com/beginner/SIKO-D.HTM

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(無題) 投稿者:初心者  投稿日: 6月19日(土)23時02分55秒 p0202-ip01fukuhanazo.fukushima.ocn.ne.jp

お答えありがとうございます。

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Re 質問 投稿者:松下彰良  投稿日: 6月19日(土)21時22分19秒 p6e4d28.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 通常は、後から出されたものの方が、前に出された訳を参照できますので、より良い訳に
なり得ます。(中村秀吉訳は1964年2月に、生松訳は1965年4月に出版されており、生松氏
は中村訳を参考にしています。) しかし例外はあります。
 2冊の訳を読み比べているわけではないので、はっきりしたことは言えませんが、中村訳
の方には、14ページにわたる詳しい「訳者あとがき(解説)」がついていますので、初心者
の方にはよりお薦めです。(生松訳には3ページほどの簡単な解説しかついていません。)

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質問 投稿者:初心者  投稿日: 6月19日(土)18時37分37秒 p4163-ip01fukuhanazo.fukushima.ocn.ne.jp

ラッセルの「哲学入門」についてなのですが、
中村秀吉訳・社会思想者のものと、
生松敬三訳・角川のもののどちらを選べばよいでしょうか?
教えていただければ幸いです。

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ラッセルの善悪 投稿者:minami  投稿日: 6月13日(日)10時18分3秒 c211-30-84-5.belrs3.nsw.optusnet.com.au

横レス失礼。
ラッセルにとっての善悪は、集合としての観点で、この「善悪中毒」の発想に少し、近いところもあるよね。
https://homepage3.nifty.com/pub-liberta/627.html

蟻の善悪という言葉は、使っていないようだけど。

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質問です。 投稿者:さいぞう  投稿日: 6月 5日(土)15時21分30秒 YahooBB221019016106.bbtec.net

以前なにかの本で、
「ラッセルによると、神が人間を罰するということはちょっと考えにくい。人間が蟻の善悪を判断し罰するようなものだからだ」
というようなことを読みました。
ずっと気になっていたので、ちゃんとラッセルの本を読んで確認したいのですが、どの本に書いてあるのかわかりません。

ご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。
よろしくお願いします。

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よみました 投稿者:高橋正和  投稿日: 4月30日(金)12時45分17秒 ns.mangahiroba.jp

ラッセル初心者です「幸福論」読みました。いろいろ自分を心地よく悩みを解消してくれました。

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(無題) 投稿者:サクライ  投稿日: 3月 3日(水)00時39分42秒 EATcf-214p150.ppp15.odn.ne.jp

松下様 φ様

回答ありがとうございます。
ラッセルを読む限りでは、classとsetの区別はあまり気にしなくてよいようですね。

確かにラッセルは個体の集合にclassを使うし、class of classesという表現も当然使うし、教科書とは逆にset of classesという表現も使うし、あまり本人も区別を考えているようには思われませんね。ありがとうございました。

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クラスとセット 投稿者:φ  投稿日: 3月 2日(火)05時02分19秒 proxy11.rdc1.kt.home.ne.jp

 一般にはクラスとセットは「ほぼ」同じものとして扱われますが、ラッセルや他の人たちがクラスとセットその他の語をどう使い分けていたかという歴史的なことは、残念ながら私もあまり覚えがありません。
 「ほぼ」同じというのは、現在、標準的な集合論の教科書では、一般的にはsetを用い(つまり個体の集合の場合は)、そこから順次高次の集合が作られる場合に、set of sets と言わずに(言ってもかまわないのだが反復を避けるために)class of sets とかfamily of sets と呼ぶのが普通だからです。だからclassは、高いタイプの集合の構成が前提となっている語ですね。
 ラッセルは第1階の集合、つまり個体の集合にもclassという語を使っています。集合論のsetと同じと見てよいでしょう。

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クラスとセット(集合)違い 投稿者:松下彰良  投稿日: 3月 1日(月)21時59分52秒 p6e4d82.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 私は論理学は専門ではないのではっきりしたことは申し上げられません。
 専門的なことはφさんに回答していただかないといけませんが、少しだけ情報を提供させて
いただきます。すでにご存じのことかもしれませんが・・・。

 ラッセルは「集合論のパラドクス(いわゆるラッセルのパラドクス」を回避するために、
「タイプ理論」を導入したわけですが、公理系集合論は、後に、このタイプ理論からヒント
を得て、「タイプ理論」を「クラス」概念の基礎としたといわれています。
 たとえば、「セットとクラス:歴史的概観」
 https://www.sdi-net.co.jp/logico-02.htm
 及び、
 「数学基礎論と消えたパラドックス」(数学セミナー93年8月号より)
 https://members.at.infoseek.co.jp/nbz/ref/paradox.html
 をごらんになってください。
  それから、 ラッセル著『数理哲学序説』(中村秀吉・解題)
 https://russell-j.com/KAIDAI04.HTM
 も参考になるかもしれません。
 
 ところで、現在では、セット(集合)とクラスとを区別して使っているとしても、ラッセル
自身、区別して使っていたかどうかということになると私にはよくわかりません。
  
 1910年に出版された『プリンキピア・マティマティカ』第1巻では、はっきりした
区別をしていなくても、1925年にだされた『プリンキピア・マテェマティカ』第2版
第1巻では区別しているかもしれません。
 φさんに登場してもらわないとダメなようです。
https://www.sdi-net.co.jp/logico-02.htm

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(無題) 投稿者:サクライ  投稿日: 2月29日(日)22時08分53秒 EATcf-441p154.ppp15.odn.ne.jp

ラッセルの使う「class」というのは、数学の集合(set)と同じように思うのですが、何か違いはあるのでしょうか。

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レス遅れました。 投稿者:陽平  投稿日: 2月25日(水)22時41分46秒 i61-195-244-072.us.catvmics.ne.jp

松下様

さっそくのレスありがとうございます。
お礼が遅くなってしまったことをお詫びいたします。
まずは論文の方から見させていただきました。
吉田夏彦「バートランド・ラッセル:哲学と論理学」
わかりやすいと思います。
もうひとつの方も時間を見つけて読ませていただきます。

アドバイスありがとうございました。

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Re ラッセル:哲学と論理学の関係 投稿者:松下彰良  投稿日: 2月23日(月)22時45分38秒 p6f81d6.kyotnt01.ap.so-net.ne.jp

 陽平さま
 
 ラッセルの記述理論関係の文献は多数ありますが、たとえば、このホームページには
以下の情報を掲載しています。
 
(1)ラッセルの論理思想関係の文献リスト    https://russell-j.com/R4B2A-S.HTM

 1)007.記述理論の諸問題 藤村 竜雄
  『哲学雑誌』v78(n.750):1963年10月,p.181-202.

 2)014.バートランドラッセルの記述理論形成の過程-意味論・存在論の見地から-
   野本 和幸
  『哲学研究』n.524(1972年12月刊)、p.29-52.
   *本論文の内容は、1971年度日本科学哲学会大会に於いて口頭発表された。

 3)022.バートランドラッセルの記述理論における「記述句」について 吉田 謙二
  『人文学』(同志社大学人文学会)n.137(1982年3月刊),p.221-238

 4)023.記述理論の成立 土屋 純一
  『金沢大学文学部論集-行動科学篇-』n.2(1981年度:1982年3月刊)、p.87-106.

 5)024.バートランド・ラッセルの確定的記述について 吉田 謙二
  『人文学』(同志社大学人文学会)n141(1985年3月刊),p.1-17.

(2)論文そのもの
 1)吉田夏彦「バートランド・ラッセル:哲学と論理学」
  https://russell-j.com/cool/PAM02-01.HTM
  *記述理論というよりは、哲学と論理学との関係全般についてのべています。

 2)ヴォルフガング・カール「ラッセル記述理論-その論理的意味と認識論的意味-
  『大哲学者の根本問題』[現代I](富士書店,1982年)pp.223-270.
  *これは50ページの長論文ですので、一番参考になるかもしれません。
  
 あとは、google の検索エンジンを使って調べてみてください。いっぱいあるはずです。

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哲学と論理学の関係 投稿者:陽平  投稿日: 2月23日(月)21時35分8秒 i61-195-244-072.us.catvmics.ne.jp

こんばんは、陽平といいます。
ラッセルの記述理論にうまく関係させたレポートを書きたいと思っております。
どなたかご教授いただけませんか?
参考になる文献やHPをご存知の方がいらっしゃいましたらよろしくお願いします。

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おそまきながら 投稿者:tokyo  投稿日: 2月22日(日)02時04分36秒 ZG188215.ppp.dion.ne.jp

1.CP=2√10
2.AP:BP=1:1
3.AP=2√2

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Re リンク感謝  投稿者:松下彰良  投稿日: 2月14日(土)10時44分24秒

寮美千子さま

 書き込みありがとうございます。松下です。

 寮佐吉氏(訳)『原子のABC』については、私がつかんでいる限り、国立大学では、金澤大学しか所蔵しておらず、しかも.87-102は落丁です。随分昔に金沢大に出張でいった時に、複写させていただき、早稲田のラッセル関係資料コーナーに寄贈させていただきました。

 寮氏は科学ライターとありますがどのような方だろうかと、その後国会図書館で調査させていただきました。その過程で寮美千子氏のことを知り、もしかするとインターネット上にあなたに関する情報があるかも知れないということで、検索エンジンで探索したところ、あなたのホームページを発見しました。(岩波の『図書』に掲載されたエッセイも拝読しました。)
 ごあいさつ(お礼)が遅れましたが、今後ともよろしくお願いいたします。

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リンク感謝 投稿者:寮美千子  投稿日: 2月14日(土)02時55分59秒

はじめまして。寮美千子と申します。ラッセルの「原子のABC」を翻訳した寮佐吉の孫にあたります。祖父はわたしが生まれる10年前に他界したため、祖父の記憶はまったくありませんが、父から聞いた話はなかなか興味深いものでした。かつて岩波の「図書」に父から聞いた祖父の話を書いたことがあります。これをウェブに再録した「ある科学ライターの話」を、こちらのサイトでリンクしてくださったこと、きょう知りました。ありがとうございます。祖父に関しては、ほかの著作や訳本などの情報や履歴を掲載した「祖父の書斎/科学ライター寮佐吉」というコーナーを作っています。みなさま、よかったらそちらものぞいてみてください。

追伸:それにしても、これだけ充実した情報サイトはそうありません。すばらしいです。
https://ryomichico.net/sakichi/index.html

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RE ラッセルの謎(2) 投稿者:松下彰良  投稿日: 1月16日(金)22時57分11秒

数学勉強中さん

 おそくなりましたが、「ラッセルの謎(限定語数)」について、著名な数学研究者である高木貞治博士のエッセイを掲載しましたので、参考にしてください。

https://russell-j.com/cool/TAKAGI-1.HTM

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この掲示板の目的 投稿者:松下彰良  投稿日: 1月15日(木)19時33分1秒

Nightmareさま

 この掲示板はラッセルのホームページ用です。
 ラッセルに少しでも関係したことであれば何を書き込まれてもかまわないですが、
まったく関係ないことはご遠慮いただき、よりふさわしい掲示板をご利用ください。

 時々、大学や高校などの課題や宿題について、回答だけを教えてほしいとの依頼があります。そのような書き込みはひかえてください。
 ただしそのようなものでも、ラッセルに関係したもので、自分で考えてみたが、この辺がよくわからないので誰か教えてほしいといったことであれば、大いに書き込んでください。

 それから、質問して回答してもらった場合、一言お礼を言うのは礼儀です。1月9日に質問された方、φさんが丁寧に教えてくださったのに、一言もお礼の言葉がないのは欠礼です。
 今後このような礼を欠いた質問は削除させていただくかもしれませんので、ご承知おきください。

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(無題) 投稿者:nightmare  投稿日: 1月15日(木)16時25分16秒

円Oの直径ABの延長線上にAB=BCとなる点Cをとり、Cから円Oに接線CPを引く、AB=4のとき、次の問題に答えよ。
1CPの長さを求めよ。
2AP:BPを求めよ。
3APの長さを求めよ。(BP=Xとおく)

回答急ぎます。もし解ける方がいましたらおねがいします。

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御礼 投稿者:松下彰良  投稿日: 1月10日(土)10時46分52秒

φさま

 ご親切に回答ありがとうございます。 松下

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Re:教えてください。 投稿者:φ  投稿日: 1月10日(土)03時30分18秒

どんな記号が使えるかによります。一例として、

少なくとも四つのP
∃x∃y∃z∃u(Px∧Py∧Pz∧Pu∧x≠y∧x≠z∧x≠u∧y≠z∧y≠u∧z≠u)

たかだか四つのP
∃x∃y∃z∃u(Px∧Py∧Pz∧Pu∧∀w(Pw⊃(x=w∨y=w∨z=w∨u=w)))

ちょうど四つのP
∃x∃y∃z∃u(Px∧Py∧Pz∧Pu∧x≠y∧x≠z∧x≠u∧y≠z∧y≠u∧z≠u∧
∀w(Pw⊃(x=w∨y=w∨z=w∨u=w)))

等号は使うなとか、いろいろ条件がついている場合は上の記号化が正しいとはかぎりませんのであしからず。

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教えてください。 投稿者:彩菜  投稿日: 1月 9日(金)01時13分32秒

論理学の問題で分からない問題があるので教えてください。
1、少なくとも4つのPがある
2、Pなものはたかだか(多くて4つ)である
3、ちょうど4つのPがある
を記号化する問題です。出来たら早めによろしくお願いします。
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