しかしケイト(1923-2021)の方はまだ15歳だったので,大学に入れるのは若いように思われた。私は,ロサンゼルスでは,どの学校が一番学力水準の高い学校かということを友人たちに尋ねたところ,彼らが全員一致して推薦してくれたところが一校あった。そこで彼女をその学校に入れた。しかし、その学校で教えられている科目でケイトがまだ知っていないものはたった一つしかなく,それは「資本主義制度の長所」というものであった。そのため、彼女は年齢が若かったにもかかわらず,大学(注:カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に行かせざるえなかった。
but Kate was only fifteen, and this seemed young for the University. I made enquiries among friends as to which school in Los Angeles had the highest academic standard, and there was one that they all concurred in recommending, so I sent her there. But I found that there was only one subject taught that she did not already know, and that was the virtues of the capitalist system. I was therefore compelled, in spite of her youth, to send her to the University.
Source: Bertrand Russell: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6:America, 1968
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB26-020.HTM
<寸言>
ラッセルは、1938年に「言語と事実」に関する連続講義をし(注:その内容は1940年に An Inquiry into Meaning and Truth として出版)、続いてシカゴ大学でも同じテーマで講義をしました。その後、カリフォルニア大学のロサンゼルス校の教授となることになったために、1939年3月にカリフォルニアに移り住みました(講義は秋から開始)。するとしばらくして、第二次世界大戦が勃発してしまいました。上記の引用の直前に次のように書かれています。
「1939年の夏,ジョンとケイトは,学校の休暇期間中に,私達(ラッセルと再再婚相手のパトリシア)のところにやってきた。彼らが到着して2,3日すると,第二次世界大戦が勃発した。そのため,彼らを英国に戻すことが不可能になった。そこですぐさま私は,二人のそれ以後の教育の手配をしなければならなかった。ジョンは17歳だったので,カリフォルニア大学に入学させた。しかしケイトの方はまだ15歳だったので,大学に入れるのは若すぎるように思われた。・・・」
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell