人が政治的な問題について論争したり、(武力をもって)戦争したりするとき、一方が他方より正しいということに意味はあるのだろうか、それとも、単に力比べが存在しているだけだろうか? 人間が幸福である世界の方が不幸である世界よりも良いというのは、それは一体何を意味しているのだろうか? 私が「残酷な行為は悪いことだ」と言うとき、単に「私は残酷な行為が嫌いだ」と言っているだけだと考えるのは、私としては耐え難い。私が議論したいのは、結局のところ、主観的でないものが倫理学に存在するかどうかということである。
When men dispute or go to war about a political issue, is there any sense in which one side is more in the right than the other, or is there merely a trial of strength? What is meant, if anything, by saying that a world in which human beings are happy is better than one in which they are unhappy? I, for one, find it intolerable to suppose that when I say "cruelty is bad" I am merely saying "I dislike cruelty", or something equally subjective. What I want to discuss is whether there is anything in ethics that is not, in the last analysis, subjective.
Source: Bertrand Russell: Russell: Human Society in Ethics and Politics, (1954), chapter98:Is there ethical knowledge ?
More info.:https://russell-j.com/cool/47T-0901.htm
<寸言>
多くの人が、「残酷な行為は悪いことだ」という文は個人的な感情を述べているだけではなく、客観的な(非個人的な)真実だ」と言いそうです。しかし、そうであれば、事実をいろいろ指摘し良心に訴えるだけで共通理解や合意に達しそうですが、現実はそうはなっていません。
特に戦争に関わる議論は、原則(戦争は悪)は一致していて個別の議論で平行線状態になっているように見えますが、実は、深いところで、原則的なところから一致がないのではないかと疑われます。
たとえば、イスラエル軍によるハマスへの攻撃によってガザ市民が多数犠牲になっており、国際世論の大部分がイスラエルの行為を非難しますが、イスラエル国民はやむをえないことだと考えている人が多く、アメリカ政府も基本的にイスラエルを支持しています。イスラエルとそれ以外の国とでは、原理原則から倫理に対する考え方が異なっているかのようです。
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell