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In the hey-day of capitalism, employers thought 16 hours a day reasonable, but obviously this was an over-estimate. If labour were to become as omnipotent as capital was in the early nineteenth century, too low a figure would probably be put forward with equal confidence. This illustrates the rule that controversies as to matters of fact are very often due to an absence of disinterestedness in those who pretend to be ascertaining the facts. But where this happens it is because one side, or both, has or have aims that cannot be avowed, since the general public has an aim which both sides have to profess to be pursuing.
Source: Bertrand Russell: Human Society in Ethics and Politics, (1954), chapter 8:Ethical Controversy
More info.:https://russell-j.com/cool/47T-0802.htm
<寸言>
雇用主と被雇用者、誰にも雇われていないフリーランス、(先祖から莫大な資産を相続し)他人を雇用することも雇用されることもない少数の恵まれた人々、日雇いの仕事に時々ありつけるホームレスの人々など、天皇からホームレスまで、いろいろな境遇の人達がいます。
しかし、多くの場合は、雇用する立場(資本家)と雇用される立場(労働者)のどちらかに属しています。春闘その他で、毎年賃金のベースアップの交渉が行われていますが、お互い、たとえば、日本の経済を発展させて国民の福祉を向上させるという(表向きの)共通の目標を掲げますが、実際は、双方とも、「公言できない目標」を持っているので、すれ違いの議論がどうしても多く発生してしまう、との指摘です。 たとえば、原発企業に資本を投下している資本家と原発企業の社員との間の賃金交渉においても、双方に「公言できない目標」があるが、一般大衆はそのことがわからないので、単に「手段に関する議論」をしていると勘違いしやすいというラッセルの指摘は、含蓄があります。
ちなみに、「disinterestedness」がわかりにくいので、ラッセルのこの文章のなかでの意味やニュアンスについて、ChatGPT はどう考えるか、わかりやすく説明するよう依頼してみました。
<ChatGPTによる説明>
「disinterestedness」は、文脈によって異なる解釈がされることがありますが、一般的には「無私」「公平」「利害関係のない態度」などを指します。この言葉が使われている文脈では、ラッセルは事実に関する論争において「disinterestedness」が欠如していることを指摘しています。
具体的には、専門家や当事者が立場や意見を表明する際に、彼らの発言や行動が特定の利害関係に偏っている可能性があると指摘しています。言い換えれば、真実を客観的に追求する姿勢や公正さが不足していると述べています。この不足があるため、論争が事実に関するものでありながらも、当事者たちの主観的な意図や立場が影響を及ぼしている可能性があるとラッセルは示唆しています。」
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell