ラッセル英単語・熟語1500 |
カントは、善は快楽からなるとか、徳以外の何かからなるとかいう見解に対して、決して飽きることなく軽蔑の言葉を浴びせ続けていた。(カントによれば)徳は道徳律が命じるとおりに行動することにある。なぜなら、それは道徳律が命ずることだからである。それ以外の動機からなされる正しい行為は、有徳と見なすことはできない。もしあなたが弟が好きだからという理由で弟に親切であるなら、あなたには長所はない。しかし、弟にほとんど我慢できないにもかかわらず、道徳律がそうあるべきだと言うので弟に親切にするのであれば、あなたはカントが考えるあるべき姿の人間である。しかし、快楽がまったく無価値であるにもかかわらず、カントは善人が苦しむのは不当だと考え、この理由だけで、善人が永遠の至福を享受する来生があると主張する。
もしカントが自分が信じていると思っていることを本当に信じていたのなら、天国を善人が幸福になる場所とは見なさずに、善人が嫌っている人々に(善人が)親切をする機会が絶えることのない場所と見なすだろう。(笑)
Kant was never tired of pouring scorn on the view that the good consists of pleasure, or of anything else except virtue. And virtue consists in acting as the moral law enjoins, because that is what the moral law enjoins. A right action done from any other motive cannot count as virtuous. If you are kind to your brother because you are fond of him, you have no merit; but if you can hardly stand him and are nevertheless kind to him because the moral law says you should be, then you are the sort of person that Kant thinks you ought to be. But in spite of the total worthlessness of pleasure Kant thinks it unjust that the good should suffer, and on this ground alone holds that there is a future life in which they enjoy eternal bliss.
If he really believed what he thinks he believes, he would not regard heaven as a place where the good are happy, but as a place where they have never-ending opportunities of doing kindnesses to people whom they dislike.
Source: Bertrand Russell: Human Society in Ethics and Politics, (1954), chapter 3
More info.:https://russell-j.com/cool/47T-0310.htm
<寸言>
ラッセルは、ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジでの修士論文でカントの幾何学をとりあげ、カントを"適度に"褒め、"適度に"批判したために、評価されました。その後、大御所のカントを批判し始めたところ、しだいにカント崇拝者から「ラッセルはカントをあまり理解していない」と言われるようになりました。
最後の一文はカントの発言に対する揶揄・冗談です。よく読めば理解できると思われます。
添付画像の文字が見にくいかと思われますので、以下に転記しておきます。(David Hume は英国の有名な哲学者です。)
カント: Anything Hume can do, I can do better.
ラッセル:No, You Kant.
(これもラッセルの冗談です。ラッセルの『西洋哲学史』にでてくる言葉です。)
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