バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 私は,ケンブリッジで幸わせになれたはずだったが,ケンブリッジのご夫人がたが,私たちを尊敬に価する人物とは考えてくれなかった。(そこで)私は,美しい絶景を望める北ウェールズのフェスティニオグ(Ffestiniog)に小さな家を一軒購入した。その後私たちは,ロンドンにもフラットを借りた。私は,欧州大陸への講演旅行に多大の時間を費やしたが,この頃の数年間は,重要な仕事はしなかった。1949年に,妻のピーターが,もはや私を必要としないと決心をした時,私たちの結婚生活は終わりをつげた。

I could have been happy in Cambridge, but the Cambridge ladies did not consider us respectable. I bought a small house at Ffestiniog in North Wales with a most lovely view. Then we took a flat in London. Though I spent much time in visits to the Continent for purposes of lecturing, I did no work of importance during these years. When, in 1949, my wife decided that she wanted no more of me, our marriage came to an end.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB31-020.HTM

<寸言>
n.1577j ( Feb. 24, 2021) でもとりあげましたが、前半を削除し、後半部分の妻パトリシアとの別離に注目し、新しいコメントを書きました。
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「なんということでしょう!」というのは、大人気番組だった「大改造!! 劇的ビフォー&アフター」での"良い意味での"驚きの言葉ですが、妻との別離は"良くない意味での"驚きでした。
 パトリシアとの結婚(ラッセル3度目)は、次男が生まれたこともあり、うまくいくとお互い思っていたでしょうが、別れがやってきました。生まれや育ちがとても違う上に28歳の年齢差は、「愛があれば・・・」といった使い古された表現が勘違いであることを実証したのでしょうか?

 初婚相手と再婚相手とは、ラッセルのほうが限界を感じて別れましたが、今度はパトリシアが望んでの別れでした。本当のところは、本人同士でないとわからないところがありますが、多忙なラッセルとの間の溝がしだいに広がっていったと想像されます。

 そうして、しばらくして、ラッセルは、 Edith Finch(1900-1978/Russell と Edith は1930年代からの親友) と交際するようになり、とても気が合うことがわかり、1952年12月に再婚しました(ラッセル80歳)。Edith Finch は1900年生まれなのでパトリシアと同い年でやはり28歳の年齢差(Edith は当時52歳)でしたが、ラッセルが亡くなるまで二人は仲よく暮らし、添い遂げることができました。
 娘のケイトの証言をひとつあげておきます。(『最愛の人、我が父ラッセル』(理想社、1976)pp.250-251

「・・・。父は、とうとうビーターと別れて、その後まもなく、父の四人目の妻エディス・フィンチとの長い幸福な交際を始めた。彼女がいなかったら、父は自分の人生の最後の二十年を襲った個人的および(公的な)全地球的な不安を、どうやって切り抜けることになったか、わたしにはわからない。わたしの見たどの新聞の、父の坐ったり、立ったり、行進したり、抗議したりしている写真にも(注:核兵器撤廃運動のこと)、 その背景の中に、ヒョウの毛皮のコートを着た、やさしいけれど毅然とした、真の支持者エディスがいた。わたしは、エディスのことをあまりよく知らない。というのは、わたしは、そのころほとんど 英国に行かなかったし、彼女もわたしと同じように内気だったからだが、少なくともわたしの知って いる彼女のすべてをわたしは好きである。 もしもわたしが、全能者に父の人生の最後につれ添う人間を注文することができたとしたら、それは献身的で、勇敢で、ウィットに富んだエディスのような人を選んだことだろう。」
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell