ラッセル英単語・熟語1500 |
(ケンブリッジ大学の)トリニティ・コレッジは,私に対し5年任期の講師職へ就任するよう要請してきた(招聘した)。それで,私は,その要請を引き受けた。その講師職には大学評議員の資格と学内での居住権がついていた。・・・。 ケンブリッジは,信じがたいほど住宅難であり,当初は下宿屋の汚らしい部屋を見つけるのがせいぜいだった。私はコレッジ内でぜいたくに暮らしているのに,ピーターとコンラッドは,食事も十分与えられず,みじめな状態だった。私は,バーンズに対する訴訟から金が入ってくるめどがたつやいなや,ケンブリッジに一軒の家を購入し,私たちは,しばらくの間そこで暮らした。
Trinity College had invited me to a five year lectureship and I had accepted the invitation. It carried with it a fellowship and a right to rooms in College. ... Cambridge was incredibly full, and at first the best that I could achieve was squalid rooms in a lodging house. There they were underfed and miserable, while I was living luxuriously in College. As soon as it became clear that I was going to get money out of my lawsuit against Barnes, I bought a house at Cambridge, where we lived for some time.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB31-020.HTM
<寸言>
1944年6月に英国に帰国していますので、5年間の講師職というのは、1946年秋から1951年春までの期間でしょうか? ラッセルの講義は大人気で、聴講するのは大変だったようです。たとえば、ドナルド・キーン(日本の文化勲章を受賞)がケンブリッジ大学におけるラッセルの講義を聴講した時の思い出を書いた文章を以前ご紹介したことがあると思いますが、記憶されているでしょうか?(これは読売新聞にも掲載されています。) 興味深い文章なので、もう一度ご紹介しておきます。
「私は、バートランド・ラッセルの哲学の講義にも出た。彼がケンブリッジで教えた最後の年で、聴講する学生の数は大変なものだった。ある講義の後で、私は彼の著作の一冊を持って教壇に近づき、自分のペンを差し出してサインしてほしいと頼んだ。ラッセル卿は私のペンを使って、ほかにもサインを頼むために列を作っていたすべての学生の本に署名した。一通りそれが済んだ後、彼は私を待たせたことに気づき、詫びた。そして、私をビールに誘ったのだった。私は、天にも昇る気分だった。ラッセル卿が夕食に出かける時間が来るまで、私たちは一緒に飲んだ。帰り際に、彼はこう言ったのだ、「お若いの、君と話すのは実に楽しい。今学期、講義が終わるたびに一緒にビールを飲もうじゃないか」。 ラッセル卿と肩を並べて通りを歩いている私を見かけた誰かが、あんなに嬉しそうな顔をした人間は見たことがないと言った。ラッセル卿は、その語彙と機知の両面で十八世紀を思わせる英語を話した。恋愛したことがあるかどうか、私に尋ねたことを覚えている。そして、「かりになかったとしても、別に驚かないがね」と付け加えた。ラッセル卿がしゃべったことを、すべて書き留めておけばよかったと思う。当時、私が書いた手紙の中に、ラッセル卿が話した逸話が一つだけ残っている。それは、彼の知り合いの若い中国人に関するものだった。その若者の中国での恩師は叡智の人として知られ、また、一度も風呂に入ったことがないことで有名だった。その恩師が死んだ時、誰かが先生の亡骸(なきがら)を風呂に入れて、さっぱりさせたらどうだろうかと言った。しかし、若い中国人は反対した、「だめだ、先生は、'まるごと'そのまま葬るべきだ」。
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