バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 その頃にはジョン(長男)はイギリスに戻り,英国海軍に入り,日本語の学習に従事させられていた。ケイト(長女)はラドクリフ女子大学で自活し,非常によく学業に励んでおり,ちょっとした教職の仕事を得ていた。従って,英国に渡航する許可を得ることは困難であることを除いて,私たち(自分と妻とコンラッド)がアメリカに留まっていなければならない理由はまったくなかった。けれども,その困難は,長い間乗り越えることができないように思われた。・・・。しかしながら,ついに,まず妻のピーターとコンラッドの出航日が決まり,約2週間後に私の出航日が決まった。私たちは,1944年5月,アメリカを後に出帆した。

By this time John was back in England, having gone into the British Navy and been set to learn Japanese. Kate was self-sufficient at Radcliffe, having done extremely well in her work and acquired a small teaching job. There was therefore nothing to keep us in America except the difficulty of obtaining a passage to England. This difficulty, however, seemed for a long time insuperable. ... At last, however, dates were fixed, for Peter and Conrad first, and for me about a fortnight later. We sailed in May 1944.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB26-090.HTM

<寸言>
 ドイツが連合国に降伏したのは1945年5月7日(1945年4月30日にヒトラー自殺)ですので、1944年5月出帆というのは、ドイツのUボートにいつ沈められるかわからない時期及び状態でした。妻とコンラッド(ラッセルの次男)はギューギュー詰めのクイーン・メリー号で不快な思いをして、ラッセルは巨大な護送船に乗り,コルベット艦(機雷掃海や対潜水艦用として開発された小型の高速護衛艦)と飛行機によって護衛されて、英国に帰国しました。
 同じ船に乗れなかったのは、「妻と私は(渡航のための)優先権順位Aを得たが,息子のコンラッドはまだ立法機能がまったくないため- 優先権順位Bしか得られなかった」ために、妻は優先順位を落として息子と別の船に乗らざるを得なかったという、頭の固い官僚のお役所仕事の被害にあったようです。
 
楽天アフィリエイトの成果(ポイント)は本ホームページのメンテナンス費用にあてさせていただきます。ご協力よろしくお願いいたします!
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell