バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 1939年の夏,ジョンとケイトは,学校の休暇期間中に私達のところにやってきた。彼らが到着して2,3日すると,第二次世界大戦が勃発した。そのため,彼らを英国に戻すことが不可能になった。そこですぐさま私は,二人のそれ以後の教育の手配をしなければならなかった。ジョンは17歳だったので,カリフォルニア大学に入学させた。しかしケイトの方はまだ15歳だったので,大学に入れるのは若すぎるように思われた。私は,ロサンゼルスでは,どの学校が一番学力水準の高い学校かということを友人たちに尋ねたところ,彼らが全部一致して推薦してくれたところが一校あった。そこでケイトをその学校に入れた。しかしその学校で教えられている科目でケイトがまだ知っていないものはたった一つしかなく,それは資本主義制度の長所というものであった。そのため私は,彼女は年齢が若すぎたが,ケイトをカリフォルニア大学にいれざるえなかった。

In the summer of 1939, John and Kate came to visit us for the period of the school holidays. A few days after they arrived the War broke out, and it became impossible to send them back to England. I had to provide for their further education at a moment's notice. John was seventeen, and I entered him at the University of California, but Kate was only fifteen, and this seemed young for the University. I made enquiries among friends as to which school in Los Angeles had the highest academic standard, and there was one that they all concurred in recommending, so I sent her there. But I found that there was only one subject taught that she did not already know, and that was the virtues of the capitalist system. I was therefore compelled, in spite of her youth, to send her to the University.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB26-020.HTM

<寸言>
 添付した画像は、ラッセル、パトリシア、ジョン(1921年11月生)、ケイト(1923年12月29日生)の4人が1939年夏にヨセミテ渓谷に行った時のものです。ハイヤーを雇ったのでしょうか? 写真を撮してしる人がいるはずですから、そのように推察されます。(当時2歳のコンラッドはベビーシッターに預けたのだろうと思われます。)
 ジョンは17歳だったと書かれていますが、1921年11月生まれなので、後数ヶ月で18歳です。従って大学入学は問題なしだったはずです。
 第二次世界大戦のために英国に帰国できなくなり、結果として、ラッセルの米国生活は6年余りに及びました。

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