バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

ラッセル英単語・熟語1500

 私は,テレグラフ・ハウスのために,年400ポンドの賃借料を支払う法律上の義務を負っていた。それは,(1931年に亡くなった)兄の2人目の妻に扶助料を支払わなければならないことから生じたものであった。私自身もまた,ジョンとケイトのための全経費だけでなく,ドーラに対する扶助料を支払う義務があった。一方,私の収入は激減した。収入が減ったのは,一部は世界大恐慌が起こり人々があまり本を買わなくなったこと,一部は私がもう通俗的な本を書かなくなったこと,一部は1931年にカリフォルニアにあるハーストの大邸宅に滞在することを拒否したことが原因であった。

I was under a legal obligation to pay a rent of £400 a year for Telegraph House, the proceeds being due to my brother's second wife as alimony. I was also obliged to pay alimony to Dora, as well as all the expenses of John and Kate. Meanwhile my income had diminished catastrophically. This was due partly to the depression, which caused people to buy much fewer books, partly to the fact that I was no longer writing popular books, and partly to my having refused to stay with Hearst in 1931 at his castle in California.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB25-020.HTM

<寸言>
 現代の日本なら、相続財産より借金のほうが多ければ、相続を放棄できますが、当時(1931年)の英国では相続放棄をできなかったのでしょうか?
 ドーラとの離婚が1935年に成立するまでは、たとえドーラのほうにより責任(注:ラッセル以外の男性の子供を二人生んだこと)があるとしても、離婚が法的に認められるまで、ドーラに扶助料を払い続ける義務がありました。また、二人の子供の教育費や生活費もかなりかかりますので、(それまでに貯めた)財産が日々減っていくばかりであり、ラッセルも不安を覚えただろうと想像されます。
 なお、「一部は1931年にカリフォルニアにあるハーストの邸宅に滞在することを拒否したことが原因であった」というのは、当時毎週ラッセルは米国のハースト系の雑誌や新聞にエッセイを寄稿していましたが、新聞王ハーストの邸宅(シメオン城と名付けられた大邸宅)への招待を断ったために、ハーストの逆鱗に触れ、解約解除となり原稿料が入ってこなくなったことを言っています。
 
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