ラッセル英単語・熟語1500 |
翌年の1930年には,『幸福の獲得』(The Conquest of Happiness/いわゆる『ラッセル幸福論』)という本を出版した。・・・この本は,3つの異なった階層の読者によって異なった評価を受けた。・・・
いずれの評価が正しいのか,私にはわからない。はっきりしていることは,この本が書かれたのは,もし自分が我慢できる程度のいかなる幸福を維持しようとしても,大変な'自制心'や'苦い経験'から学んだ多くのことを必要とした,そういった時期だったということである。(訳注:つまり、書名 the Coauest of Happiness にあるように、幸福は獲得するものであった、ということ)
In the following year, 1930, I published The Conquest of Happiness,... This book was differently estimated by readers of three different levels. ... I do not know which estimate was right; what I do know is that the book was written at a time when I needed much self-command and much that I had learned by painful experience if I was to maintain any endurable level of happiness.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2,chap.3: China
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB24-100.HTM
<寸言>
ラッセルの幸福論の実際の書名は、The Conquest of Happiness です。幸福は「棚からぼた餅のように期待して待つもの」ではなく、「努力して獲得するもの」だという意味がこめられています。90年前に出されたラッセルの『幸福論』は現在でも幅広く読まれ続けています。(日本でもこれまでに7種類の翻訳が出されおり、一番新しい岩波文庫版の安藤貞雄訳も45刷以上、印刷されています。)
ラッセルがこのような書名にした気持ちは、最後の引用文にもあらわれています。すなわち、
https://russell-j.com/beginner/AB24-100.HTM
「この本が書かれたのは,もし自分が我慢できる程度のいかなる幸福を維持しようとしても,大変な'自制心'や'苦い経験'から学んだ多くのことを必要とした,そういった時期だったということである。」
わざと曖昧に書かれていますが、妻ドーラに婚外子がいたことが大きな影響を与えていたことは明らかです。(ドーラが亡くなったのは1986年ですので、1968年に出した『ラッセル自伝』第2巻にはプライバシーの関係で書けないこともありました。)
ラッセルの実の娘のキャサリン・テートは『最愛の人,わが父ラッセル』(社会思想社、1976 巻正平訳)p.147 で次のように書いています。
「私の両親の間には、二つの基本的な不一致があり、その和解は、父の高邁な野心も及ばぬほどの、自制とあきらめを必要としたようである。第一に、母には法律上は父の子とみなされていたらしいが、本当は父の子ではない、私より年下の二人の子供があった。他人の子というのは二人の契約にはないことであった。・・・」
(注:婚外子2名の父親は、Griffin Barry (1884-1957)という名前のジャーナリストです。1928年に初めてラッセルとドーラに会ったとネット上に書かれています(無料では1,2秒しか表示されないので、URLを書けません)。多分、新しい幼児実験学校 Beacon Hill School の取材と思われます。Barry は女性の権利の擁護者であり、自由恋愛の支持者ですので、ラッセル夫婦と"少なくとも当初は”気があったと想像されます。)
当時の英国においては、婚外子であっても、離婚していなければ、結婚している夫婦の子供に自動的になってしまったということのようです。ラッセルは生涯3人の実子を持ちましたが、ネット上では5人と書いてあるものがあります。それは婚外子の2人(他の男性の子供)を含めていると思われます。
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell