ラッセル英単語・熟語1500 |
『わたしの信条』の中であなたは道徳律の基礎となるような一つの判断基準を提示しています。即ち、人間の行為はもしそれによって人間の幸福の総量が増すならばそれは"善"であると。けれどもそれは人間の幸福をはかる秤のようなものが存在することを仮定しています。・・・
ラッセルからの返事(1963年1月26日付)
拝復 ヴァン・ルーヴェン様
・・・。もしある行為が人間の幸福を増大するならばその行為は"善"である、と私が言うとき、私は人間の幸福についての一般的な基準があると言っているわけではありません。わたしが言おうとしているのは「"善"は、幸福の追求として理解されるべきである」ということです。幸福を構成するものは何かということは社会的に長く論争が続いている問題です。我々は間違いをおかすこともあるでしょう。また、状況によっては人間の幸福のために必要なものも変わってくるでしょう。しかしそれでもやはりこのような幸福を得たいとそれぞれが心に抱く幸福を追求することは、適切な道徳的作業なのです。
..In What I Believe you put forward the criterion that should underlie moral rules: a human act is "good" if through it the total amount of human happiness increases. This supposes however the existence of a measure for human happiness. There are of course cases in which it is easy to decide which of two alternative situations contains most happiness, but the existence of a general standard is not obvious to me....
Dear Mr Van Leuven, ( January 26, 1963 )
When I say that an act is 'good' if it increases human happiness, I do not imply a general standard for human happi ness. I mean to say that 'good' ought to be understood by people as the pursuit of human happiness; as for what constitutes that happiness, that is a matter for continued social debate. We will be wrong and circumstances will alter what is required for human happiness. Nonetheless, the pursuit of it, as we each conceive it to be, is the proper ethical task. ...
Yours sincerely
Bertrand Russell
Source: Dear Bertrand Russell, 1969 More info.: https://russell-j.com/beginner/DBR4-08.HTM
<寸言>
ベンサムが言う「最大多数の最大幸福」の考え方を言うと、人間の幸福は数量では測れないのでナンセンスだ!という反論が出たりします。ここは素直に、一部の人がとても幸せだが大部分が不幸な社会よりも、できるだけ多くの人がそこそこ幸せな社会のほうがよいという意味にとりたい(とったほうがよい)と思われます。
しかし、自分や自分の家族のことしか考えない大衆(愚民という表現を使いたがる人もいます)の幸福よりも、自覚した人達(一級国民といった揶揄した表現もあります)が幸福である社会のほうがよりよいと主張したり(主張しなくても)思っている人達もいます。その場合、自分は選ばれた人間(一級国民)だとほとんどの場合思っているわけですが、愚かです。(そういった一級国民だと思っている人達も、ごく一部の支配層からは御しやすい愚民と思われたりします。)
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