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私達夫婦にとって不運なことに,二人とも獄中にあり,そのデモの翌日まで釈放されなかった(1961年9月18日出獄)。・・・私達は,刑務所内で読んでいた新聞から得た情報から,私達の投獄に抗議して,英国だけでなく多くの外国においてもあらゆる種類の集会や座り込みが行なわれていたことを知った。さらに私の妻はホロウェイ刑務所(注:女性専用刑務所)の囚人たちから,9月17日のデモは成功だったという報らせを得ていた。
Uufortunately for us, my wife and I were still in gaol and were not released till the following day (Nov. 18th, 1961). ... From what we had learned from the papers that we had seen in prison, we knew that all sorts of meetings and sit-downs had been held, not only in Britain, but also in many other countries, pretesting against our imprisonment. Moreover, my wife had gathered from some of the prisoners at Holloway that the demonstration of the 17th was a success.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 3
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB33-240.HTM
<寸言>
ラッセルは囚人護送車(Black MMaria)でブリクストン刑務所(第一次大戦の反戦活動でも収監されたところ)の付属病院に入れられました。妻のエディスはホロウェイ刑務所(女性専用)に入れられたようです。
ラッセルの体調は、逮捕当時、よくなかったので、ラッセルが刑務所内で死亡したら非難があびせられて大変なので付属病院に入れられたのだろうと推察されます。
ラッセルは『自伝』に次のように書かれています。
「私は,その珍しい経験(Black Maria 乗車)を楽しむのにはあまりにも疲れすぎていた。私は刑務所の一翼にある付属病院に突然入れられ,そこでの一週間ほとんどベッドで過ごした。私が消化できる流動食をとる処置をする医師が毎日訪ねてきた。・・・」
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