バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

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 私たちは,アメリカ時代の最後を,プリンストン(米国ニュージャージー州)で過ごした。プリンストンでは,湖畔に建っている小さな家を手に入れた。プリンストン滞在中に,アインシュタインの人となりをかなり知るようになった。・・・
 その頃には(長男)ジョンはイギリスに戻り,英国海軍に入り,日本語の学習に従事させられていた。(長女)ケイトはラドクリフ女子大学で自活し,非常によく学業に励んでおり,ちょっとした教職の仕事を得ていた。従って,英国に渡航する許可を得ることは困難であることを除いて,私たち(自分と妻とコンラッド)がアメリカに留まっていなければならない理由はまったくなかった。

The last part of our time in America was spent at Princeton, where we had a little house on the shores of the lake. While in Princeton, I came to know Einstein fairly well. ...
By this time John was back in England, having gone into the British Navy and been set to learn Japanese. Kate was self-sufficient at Radcliffe, having done extremely well in her work and acquired a small teaching job. There was therefore nothing to keep us in America except the difficulty of obtaining a passage to England.
 Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2
 More info.: https://russell-j.com/beginner/AB26-090.HTM

<寸言>
 ラッセルは、1896年(24歳)の時初めて、初婚相手のアリスとともにアメリカを訪問しています。生涯で、7,8回、訪米していますが、1938年~1944年にいたる訪米が一番長いものでした。ラッセルはこれ以後にもアメリカを訪問していますが、この期間は6年間の長きに渡っていますので「アメリカ時代」と表現しています。
 ここに書かれていいるように、2番目の妻の間に生まれた長男及び長女は自活していたので、アメリカに滞在し続ける理由はありませんでした。しかし、1944年の時点ではドイツのUボートの攻撃の危険があるため、なかなか渡航許可がおりませんでした。
 そこで、ラッセルは一計を案じ、あるアイデアで見事に渡航許可を得ることに成功しました。即ち、

【けれども,その困難は,長い間乗り越えることができないように思われた。私は,英国上院における(私の)義務の遂行を認められなければならないということを主張するために,ワシントンに出かけ,そうしたいという私の欲求が非常に熱烈であるということを当局にわからせて説得しようと試みた(注:ラッセルは伯爵なので、当時、英国上院議員=貴族院議員でもありました)。ついに私は,英国大使館を納得させる論法を発見した。
 私は彼らに言った。
 「この戦争は,ファシズムに対する戦いであることを認めますね?」
 「はい」 と,彼らは応えた。
 私は続けて言った。「ファシズムの本質は,'立法府'を'行政府'に従属させることにあるということも認めますね?」
 彼らは,前よりもややためらい勝ちではあったが,「はい」と応えた。
 私は続けて言った。
 「さて,あなたがたは行政府(の人間)であり,私は立法府(の人間)です。もしあなたがたが,私の立法機能を,必要以上に一日でも長く阻害するようであれば,あなたがたはファシストです!」
 一同爆笑のうちに,私の渡航許可が即座に認められた。】

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