バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

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 私たちは,猛暑のなか京都から横浜まで(東海道線で) 10時間の旅 をした。暗くなってまもなくの頃,横浜に到着した。そうして,私たちはカメラマンたちが連続的にたくマグネシウムの爆発音で迎えられた。マグネシウムが一回爆発するごとにドーラはとび上がったので,流産するのではないかという心配が増した。私は'怒り'で我を失った。私がそんなふうになったのは,かつて(青年時代に)フィッツジェラルドの首を絞めて殺しそうになった時以来,この時だけであった。・・・一人の冒険心のあるカメラマンが,怒りで眼が爛々としている私の写真を撮ることに成功した。私がそのように完璧に狂気じみて見えるようになるなどとは,この写真がなければついぞ知らなかったことである。この写真で私は東京に紹介された。

We made a ten hours' journey in great heat from Kyoto to Yokohama. We arrived there just after dark, and were received by a series of magnesium explosions, each of which made Dora jump, and increased my fear of a miscarriage. I became blind with rage, the only time I have been so since I tried to strangle FitzGerald. ... An enterprising photographer succeeded in photographing me with my eyes blazing. I should not have known that I could have looked so completely insane. This photograph was my introduction to Tokyo.
 Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2
 More info.:https://russell-j.com/beginner/AB23-150.HTM

<寸言>
 若い人のなかには、横書きなのに文字が右から左に書かれているので、写真が逆転しているのではないかと思う人もいそうです。(横書きの文章を左から右への向きに「正式に」変えたのは戦後に占領軍によって強制されたと勘違いする人がいるかも知れませんが、実際は、太平洋戦争開戦翌年である1942年(昭和17年)に、文部省(現・文部科学省)主導で左書きへの統一の動きが打ち出されています。)
 閑話休題。当時の関連記事をひとつあげておきます。

「ラッセル君東上、今明日中東京へ来て・・・」
 『東京朝日新聞』1921年(大正10年)7月26日付
  https://russell-j.com/cool/TA210726.HTM

 第1面のコラム欄「今日の問題」より)

 ラッセル君東上、今明日中東京へ来て予定の講演を始めるつもりか。所謂無産階級の同情者、共産主義(松下注:これは誤解を招くが、今の言葉で言えば「民主社会主義」に近い)の鼓吹者、哲学者、数学家として同君の名は可成り世界的に知られている。近来の一珍客に相違ない。
 この珍客の日本着以来の消息を聞くと随分貴族的な、悪く言えば人を見くびってかかるような態度がありありと見える。クロニクルのヤング君の感化かも知らぬが、色眼鏡を外してもっと真剣に日本人の多数に接し、真剣に日本の事情を研究しなければ、君の来訪は無意義だ。

(松下独り言:ラッセルは改造社(=雑誌『改造』で著名)の懇願により、中国から英国への帰途、日本にごく短期間立ち寄っただけである。横浜駅で(フラッシュは勘弁してほしいとの要請にもかかわらず)多数の新聞記者のフラッシュを何度もあび、妊娠していたドラ・ブラックに悪影響があっては大変と一瞬怒りを覚えステッキで新聞記者を追い払おうとした出来事があった。これを誤解し、「随分貴族的」だといった識者がいた。それにしても、「色眼鏡」で見ているのはこのコラム担当者(論説委員の一人か?)ではないのか? 有名な思想家は、「単なる海外旅行」は許されないのか。訪れた国々においては「多くの人に接し、真剣にその国の事情を研究」しなければ、その国を訪問する意義はないとでもいうのだろうか。)

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