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私が講義をした(当時の)北京国立大学は,非常に優れた教育機関であった。総長と副総長は,中国の近代化に情熱的に献身している人物であった。・・・英国人は中国の改革者たちをあざ笑い,そうして,「中国はいつまでたっても中国に変わりないだろう」と言っていた。彼らは私に,半人前の若者の浅はかな話に耳を傾けることは愚かだ,と自信をもって主張した。しかし,それから2,3年のうちに,その半人前の若者たちが中国を征服し,英国人の手から英国人が大事に慈しんできた多くの特権を剥奪したのである(訳注:1925年7月に中華民国国民政府の成立が宣言された。なお、北京大学は1920年に中国で初めて女性の入学を認めたとのことです)。 。
The National University of Peking for which I lectured was a very remarkable institution. The Chancellor and the Vice-Chancellor were men passionately devoted to the modernising of Cnina. ... The English sneered at the reformers, and said that China would always be China. They assured me that it was silly to listen to the frothy talk of half-baked young men; yet within a few years those half-baked young men had conquered China and deprived the English of many of their most cherished privileges.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2
More info.:https://russell-j.com/beginner/AB23-070.HTM
<寸言>
前年に中国を訪問した J. デューイは、当時の中国の知識人に大きな影響を与えましたが、翌年(1920年に)訪中したラッセルはそれ以上に大きな影響を中国の知識人及び青年に与えた(ラッセル研究専門の雑誌『羅素月刊』も出されています。)と新島淳良氏(当時、早大政経教授)は、ラッセル『中国の問題』(理想社刊/牧野力訳)の巻末解説(pp.287-341)「バートランド・ラッセルと中国」で極めて具体的かつ詳細に書いています。
なお、新島氏は同書p.296で「ラッセルが北京大学から招(よ)ばれたのは1920年春であるが・・・」と書いていますが、ラッセルが中国にいたのは1920年10月下旬から1921年7月上旬ですので、誤りです。
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