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上海で,私達(ラッセルとドーラ)は,中国人ばかりでなく,ヨーロッパ人,アメリカ人,日本人,朝鮮人というように,絶え間なく,多くの人々に会って時を過ごした。概して,私達に会いに来た多種多様の人々は,お互いに言葉をかわす間柄ではなかった。たとえば,日本人と,爆弾を投げた容疑で追放させられていた朝鮮人キリスト教徒との間には社交的関係はまったくなかった。当時の朝鮮では,キリスト教徒と爆弾を投げる人とは,実際上,同じ意味であった。そういうわけで,私達は,一般応接室で,来客をそれぞれ別々のテーブルにつかせて,テーブルからテーブルヘと一日中動きまわらなければならなかった。
Our time in Shanghai was spent in seeing endless people, Europeans, Americans, Japanese, and Korean, as well as Chinese. In general the various people who came to see us were not on speaking terms with each other; for instance, there could be no social relations between the Japanese and the Korean Christians who had been exiled for bomb-throwing. (In Korea at that a time a Christian was practically synonymous with a bomb-thrower.) So we had to put our guests at separate tables in the public room, and move round from table to table throughout the day.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2
More info.:https://russell-j.com/beginner/AB23-030.HTM
<寸言>
ラッセルが中国を訪れた1920年当時(ラッセル48歳)、ラッセルは、第一次世界大戦に反対して刑務所に入った平和主義者(及び、『社会再建の原理』や『ボルシャビズムの理論と実際』を執筆した社会思想家)として、また、学問の世界では、『プリンキピア・マテマティカ』という、論理学の画期的な著作を執筆した論理学者として、世界的に知られていました。
ラッセルは、マルセイユから船に乗り、紅海を通り、シンガポール経由で1920年10月12日に上海に到着しています。最初は一品香(イ・ピン・シャン)旅館というホテルに泊まり、次に(添付画像の)浦江飯店(Astor House Hotel)に移っています。このホテルにはアインシュタインが1922年に日本に来た時に泊まっています。この辺の事情は、ラッセルのホームページ専用の電子掲示板で、昔(2002年)、いろいろな人とやりとりしました(下記のURL参照)が、最近では電子掲示板への書き込みは皆無で、ラッセルに関心を持っている日本人は余りいないようです(いてもほとんどが、ラッセルの『幸福論』に関するものばかりです)。
https://russell-j.com/cool/EBBS-02.HTM
ちなみに、ラッセルは1年前の1921年に改造社(山本実彦社長)の招聘によって日本に来ています。山本社長が、ラッセルの次に誰を招聘したらよいかラッセルに聞いたところ、第一にアインシュタインンの名前をあげたと、山本実彦は回顧録に書いています。
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