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正規の勉強のほかに,少年少女(生徒)は,現在論争の的になっている,政治や社会に係る,また神学すらに係る,重要問題に関心を寄せるように奨励されなければならない。そういう論争の正統的な側だけでなく,あらゆる側の意見を読むよう奨励されるべきである。もしも,彼らの中にある側あるいはその反対側に強く共感している者がいたら,教師はその生徒に自分の意見を支持する事実を見つける方法を教えてあげるべきであり,また,反対意見を持つ者と討論するように仕向けるべきである。真理を突きとめるために真剣に行なわれる討論は,大きな価値を持ちうる。こういう討論では,教師は,たとえ強い確信を持っている場合でも特定の側に立つことがないようにしなければならない。もしも,大半の生徒が一方の側に立つようであれば、教師は、単に論争のためにこうしますと言って、反対の側に立つとよい。さもなければ、教師の役割は、事実に関する誤りを正すことに限らなければならない。こういう方法によって、生徒たちは、討論を言葉の上での勝負を争うものとしてではなく、真理を突きとめる手段として学ぶことができるだろう。
In addition to regular work, boys and girls ought to be encouraged to take an interest in current controversial questions of importance, political, social, and even theological. They should be encouraged to read all sides in such controversies, not only the orthodox side. If any of them have strong feelings on one side or the other, they should be told how to find out facts which support their view, and should be set to debate with those who hold the opposite view. Debates, conducted seriously with a view to ascertaining the truth, could be of great value. In these, the teacher should learn not to take sides, even if he or she has strong convictions. If almost all the pupils take one side, the teacher should take the other, saying that it is only for purposes of argument. Otherwise, his part should be confined to correcting mistakes as to facts. By such means, the pupils could learn discussion as a means of ascertaining truth, not as a contest for rhetorical victory.
Source: On Education, especially in early childhood, 1926, by Bertrand Russell
More info.:https://russell-j.com/beginner/OE16-050.HTM
<寸言>
米国で重視される debate(闘論)は、議論による真理の探求というようりも、よい議論あるいは議論に勝つための方法論に焦点があたってしまうきらいがあります。しかし、ここでラッセルが言っている discussion(議論)は、あくまでも真理を得るための手段にすぎません。
ラッセルが例にあげている討論における教師の役割は理想的なものであり、実際は、自分の意見を言ってしまう教師が多く、多くの生徒が教師の意見の影響を受けてしまいます。
それに日本では、政治的な問題は教室の授業でとりあげられることは少なく、教科書にのっていても、大学受験や高校受験にでないという理由でそういった部分は「割愛」されたりしてしまいます。
そうして、周囲を気にして、自分の意見を言わない、あるいは自分の意見を持たない、大量の日本人が再生産されていきます。
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