未来を決定する法則が「存在する」と主張することは,我々はその法則を発見しうるかもしれないということを付言するのでなければ役に立たない。・・・ もし,決定論(という原理/理論)が,証拠によって,可能性があるとすることができたりあるいは可能性がないとすることができたりする何らかのものごとを主張するものだとしたら,それは我々人間の能力との関係において述べられなければならない。そうでないとしたら,我々は(J. ミルトンの)「失楽園」における悪魔たちと運命を共にする危険を冒すことになる。その悪魔たちは,次のように言っている(嘆いている)。
高邁な思想と議論にふける
神慮,先見,意思(意志),運命について
不動なる運命, 自由意思, 絶対の先見
そうして結論に至らず迷路に彷徨い行き暮れる。
It is of no use to assert that "there are" laws which determine the future, unless we add that we may hope to find them out. ... If the doctrine of determinism is to assert anything that can be made probable or improbable by evidence, it must be stated in relation to our human powers. Otherwise we run a risk of sharing the fate of the devils in "Paradise Lost," who
reason'd high
Of Providence, Foreknowledge, Will, and Fate,
Fixt Fate, free will, foreknowledge absolute.
And found no end, in wandering mazes lost.
Source: Religion and Science, 1935, chapt. 6:
More info.: https://russell-j.com/beginner/RS1935_06-030.HTM
<寸言>
それが本当に切実に知りたいことであれば人が何を言おうが探求すればよい。しかし、議論のための議論はいただけない。人生は短いということを自覚しないといけない。そのようなことで時間を無駄にする余裕はないはすだが、死期が近づいて初めて気づく。