『バートランド・ラッセル-反核の論理学者』(学芸みらい社刊)p.42で引用されているものに関連したラッセルの言葉です。
「(大正10年7月17日) 船が神戸港の埠頭に近づいた時,旗を持った非常に長い行列が埠頭に沿って行進しているのが見えた。日本語を理解できる者が驚いたことには,その旗の何本かには,ラッセル卿歓迎と書かれていた。・・・そのストライキは,クリスチャンで平和主義者の賀川豊彦という人によって指導されており,彼は私をストライキのいくつかの集会に案内し,私はそのうちの一つで演説をした。」
As the boat approached the quay, we saw vast processions with banners marching along, and to the surprise of those who knew Japanese, some of the banners were expressing a welcome to me. ... The strikers were being led by a Christian pacifist called Kagawa, who took me to strike meetings, at one of which I made a speech.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2, chapt.3,
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB23-130.HTM
<寸言>
ラッセルは『自伝』で「当時は,著名な外国人に敬意を表する時以外はそのような行進を警察が許可しなかったので私の歓迎を理由にすることがデモ行進をする唯一の方法であったということ,が判明した。」と書いています。ラッセルの来日に「かこつけて」という面はあるにしても、実際にラッセルを歓迎する行進でした。ラッセルの日本での動静は、多くの新聞でその一挙一投足が報じられていますが、『東京朝日新聞』1921年(大正10年)7月18日付(第3面)は、ラッセルが神戸に到着した時のことを、次のように報じています。
「バートランド・ラッセル氏を乗せた営口丸は、十七日午前十一時三十分、神戸港第二埠頭に沿って徐航して居る。此日恰も大倉山公園にて催された労働者の運動会にて勢揃いせる各労働組合会代表者約百余名、数十旒の旗を押し立て労働歌を唄いつつ波止場に来て整列出迎えた。ラ氏は白の背広にヘルメット(帽)をかぶり、籐椅子に凭(よ)って居たが、労働者の出迎えと見て、抑え切れぬ喜びを見せ起って欄干に凭(よ)った百余名の労働者は一斉に旗を振り万歳を唱えた。やがて船は横着けされた。先ずラ氏に握手せるは賀川氏(右写真「ラッセルと賀川豊彦: From R. Clark's The Life of B. Russell, 1975)で両氏の間に慇懃な挨拶が交換された。次に記者が握手して、歓迎の挨拶を述べ、「ご病気は如何です」と聞くと、「もう大分良いが未だ疲れて居ます、有り難う」と答える。記者は殊更対話を避け、門司からラ氏に随行の改造社の橋口氏に船中での模様を聞くと、支那で三箇月も殆ど病床に暮らしたラ氏も日本の風景に接してから不思議なほど元気となり、昨夜瀬戸内海を航行して居た間は夜の一時頃までデッキに月光を浴びつつ、ブラック女史と歓談して居たと。・・・後略・・・」