原理原則や自己犠牲や大義名分に対する英雄的献身等々に関する大部分の話(おしゃべり)は、いくらか懐疑的によく調べてみるべきである。少し精神分析をしてみればしばしばわかることであるが、こういった美名によって進むものは、実際は,たとえば自負心や憎悪や復讐心というようなまったく異なったものであり、それらは理想主義の気高い形態として,理想化され、共有化され(collectivized 集団化され)、人格化されてきたものである。好戦的な愛国者は -祖国のために進んで戦おうとする(あるいは)戦いたくてしかたがない者であり- 殺人に一定の喜びを持っている(のではないか)と疑われるのももっともである。
Most talk about principle, Self-sacrifice, heroic devotion to a cause, and so on, should be scanned somewhat sceptically. A little psycho-analysis will often show that what goes by these fine names is really something quite different, such as pride, or hatred, or desire for revenge, that has become idealized and collectivized and personified as a noble form of idealism. The warlike patriot, who is willing and even anxious to fight for his country, may reasonably be suspected of a certain pleasure in killing.
情報源: Power, 1938.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_310.HTM
<寸言>
「英霊」「尊い犠牲の下に」とは言うが、「多くの他国民を殺害し」「多くの国民を蹂躙し」などとは絶対に口が裂けても言えない。そうして、過去の自分の祖先や肉親の犯罪は早く忘れてほしいので、言葉先だけ反省を言うだけで、「未来に目を向けよう」と言い続ける。安倍政権や自民党において権力を得るには偽善者でなければならない、と思われるほどである。