美徳を教えるためには偽り(嘘)を吹き込むことが必要である,と一般に考えられている。政治(の世界)では,自分の支持政党の著名な政治家の悪徳を隠す。神学(の世界)では,自分がカトリックなら(ローマ)法王の罪を隠し,プロテスタントならルターやカルヴァンの罪を隠す。性の問題では,若い人の前で,貞節が実際よりもずっと普通であるようなふりをする。
It is generally held that the teaching of virtue demands the inculcation of falsehood. In politics, we conceal the vices of eminent statesmen of our own party. In theology, we conceal the sins of Popes if we are Catholics, and the sins of Luther and Calvin if we are Protestants. In matters of sex, we pretend before young people that virtue is much commoner than it is.
情報源: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.16: Last school years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE16-090.HTM
<寸言>
嘘をついても自分の権力が危うくならないということになれば,嘘をつくことの許容度がどんどんあがっていく。国民も「清濁併せ呑む」の意味や意義をわかっていて、目的を達するために多少きれいでないこと(=汚いやり方)をしても仕方がないと、国民や自分の支持者は部分的に見て見ぬふりをしてくれているんだ、とどんどん偽善や自己欺瞞が進んでいく。
どんなにひどい候補者を選挙で選んだとしても、国民は自分たちに「ふさわしい」政治家を選んでいるんだ、ということになる。いずれ大きなしっぺ返しを受けても「自業自得」か?