しかし,我々の時代(現代)において自由を欲する人は,19世紀とは異なった闘いをしなければならないし,自由が滅びてはならないならば新しい便法(手段)を考案しなければならない。17世紀から19世紀の末まで,「自由」は急進主義者や革命家の合言葉だったが,現代ではこの言葉は反動主義者(保守反動家)に奪い取られており,自らを最も進歩的と考えている者たちはこの自由という言葉を軽蔑する傾向がある。自由という言葉には「腐敗したブルジョアの観念論」の一部というレッテルが貼られており,優雅な閑暇をすでに楽しんでいる裕福な人たちにとってのみ重要な,中産階級の一時的な気まぐれとみなされている。
But those who care for liberty in our day have to fight different battles from those of the nineteenth century, and have to devise new expedients if liberty is not to perish. From the seventeenth century to the end of the nineteenth, "Liberty" was the watchword of the radicals and revolutionaries; but in our day the word has been usurped by reactionaries, and those who think themselves most progressive are inclined to despise it. It is labeled as part of ''rotten bourgeois idealism" and is regarded as a middle-class fad, important only to those who already enjoy the elegant leisure of the well-to-do
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<寸言>
人間の「自由」(の擁護)は大事であり、政治において最も重視すべき事柄の一つであろう。しかし、その「自由」が一部の支配階級や富裕者しか享受できないものであったとしたら、その価値は半減いや、色褪せる。Freedom for All でなければならないが、それも掛け声だけではうさんくさいものとなる。