(ニュヨーク市立大学教授就任取り消し後)私が執筆したものはなんであっても,掲載してくれる新聞や雑誌はまったくなくなってしまい,私は,突然,生計をたてる手段を奪われてしまった。(母国の)英国から金を取り寄せることは法的に不可能だったため,このことは,非常に困難な事態を私たちにもたらした。特に,この時私は3人の子供を扶養しなければならなかったため,よりいっそうそうであった。多数のリベラルな考えの教授たちが坑議をしてくれた。しかし彼らは,私は伯爵だから先祖から受け継いだ遺産をもっていて,裕福に暮らしているにちがいない,と想っていた。
No newspaper or magazine would publish anything that I wrote, and I was suddenly deprived of all means of earning a living. As it was legally impossible to get money out of England, this produced a very difficult situation, especially as I had my three children dependent upon me. Many liberal-minded professors protested, but they all supposed that as I was an earl I must have ancestral estates and be very well off
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-040.HTM
<寸言>
ニューヨーク市立大学教授の招聘の話が消えた後、生計の糧を失い、ラッセル一家は窮地に陥る。しかし、学問の自由のために闘ってくれた同士も、ラッセルは伯爵だから財産はあるだろうということで、誰も経済的に支援してくれる者はおらず、窮地にたたされることになる。
だが、バーンズ財団創設者であるバーンズ博士から救いの手がさしのべられ、フィラデルフィアのバーンズ財団において、一般市民向けに西洋哲学の歴史に関する公開講座を開くよう依頼され、収入を確保し、窮地を脱することができた。これによって、ラッセル『西洋哲学史』が生まれることになったのである。