昔々あるところに、ブタをこれ以上ないほど美味しいソーセージに変えるために精巧に組み立てられた、2台の'ソーセージ製造機'がありました。そのうちの1台は、'ブタヘの熱意'を持ち続け、無数のソーセージを製造しました。もう一台の製造機は、こう言いました。「私にとって、ブタがなんだっていうんだ。私の'仕掛け'のほうが、いかなるブタよりもずっと興味深いし、すばらしい。」 彼はブタの受け入れを拒否し、自分の内部の研究をするための仕事にとりかかりました。自然の食物を失うと、彼の内部は機能しなくなり、研究すればするほど、自分の内部は空虚でおろかであると思われるようになりました。(すると)それまで(ブタをおいしいソーセージに)素晴らしい変換を行ってきた精巧な装置はすべて、止まってしまい、自分はいったい何ができるのかと思い、彼は途方にくれてしまいました。
There were once upon a time two sausage machines, exquisitely constructed for the purpose of turning pig into the most delicious sausages. One of these retained his zest for pig and produced sausages innumerable; the other said: 'What is pig to me? My own works are far more interesting and wonderful than any pig.' He refused pig and set to work to study his inside. When bereft of its natural food, his inside ceased to function, and the more he studied it, the more empty and foolish it seemed to him to be. All the exquisite apparatus by which the delicious transformation had hitherto been made stood still, and he was at a loss to guess what it was capable of doing.
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap.11: Zest
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-020.HTM
<寸言>
外界に対する興味・関心,熱意の重要性を言っています。ただし熱意は重要ですが「熱意さえあれば」大丈夫だとはもちろん,ラッセルは言っていません。
ところが,(紀伊國屋人文大賞を受賞した)『暇と退屈の倫理学』のなかで,國分功一郎氏は,「ラッセルは,熱意だけあればよいと言っている」と曲解し,そのもとにいろいろな議論をしています。
この本では一番多く引用されているのがハイデガーですが,次に多く引用されているのがラッセルの『幸福論』です。冷静に読めば國分氏の誤読は容易にわかると思われますが,どうして國分氏はこんな初歩的な誤読をしてしまうのでしょうか?
それに國分氏の本の主題に最も関係しているのは,ラッセルの『怠惰への讃歌』(平凡社文庫)ですが,國分氏は読んでいないようです。
興味の有る方は次のページを読んでいただければ幸いです。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』におけるラッセル『幸福論』の「誤読」
http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2014.html#br2014-2