三浦俊彦「文明の終焉と非同一性問題−「世代」「種」を超える倫理へ−
『岐阜』(研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.4) 実際、 日本大学生物資源科学部のキャンパスに、 日大総合医学研究所の 「ニホンザル飼育・行動実験施設」 が文部省から建設費の半額補助をうけて建設中であることを報道した新聞記事にも、 「実験にはこれまで、 業者が捕獲した野生のニホンザルを使っていたが、 動物愛護団体からの反対や、 野生サルのウイルスによる感染症が問題となっていることから、 飼育から手がけることにした」(注3) 「(総合医学研究所の話によると) 愛護団体の要望にこたえる形で、 実験用に野生でない今回の飼育ザルの計画を立てた」(注4) などとある。 「野生動物や元ペットの虐待はいけないが、 実験専用の飼育動物ならば目くじら立てない」 という動物愛護の基本姿勢は、 欧米でも日本でも同じであるようだ。
 動物愛護多数派のこの常識に、 論理的な裏付けはあるだろうか。 一見したところ、 確かにある。 先に引用した動物実験廃止派の文章では、 一つの事実が見逃されている (というより、 無視されている)。 「生まれた状況による差別化」 という言葉が使われているが、 それは厳密には正しくない。 「差別化により生まれた状況」 というのが真実だろう。 すなわち、 実験用繁殖動物に与えられた状況がまずあって、 それが差別を受けたわけではない。 逆に、 はじめに実験用繁殖動物としての差別化が設けられていて、 もっぱらそのために彼らの状況が生じたのである。 つまるところ実験用繁殖動物の命は、 動物実験の制度があったからこそ初めて、 存在するようになったということである (注5)
 捨てられたペットや野生動物が、 厚生省から払い下げられて実験施設で虐待されるような場合、 彼らが本来享受したであろう生の質と、 実験に服したことで蒙る生の質とを、 比較することができる。 実験で苦しんだすえ殺処分される 「ために」 生まれてきたのではないペットや野生動物を、 実験施設に委ねることは、 彼らを 「より不幸に」 することである。 一方、 繁殖動物の場合、 実験施設に委ねられたことで彼らが 「より不幸に」 なったとは言えない。 彼らの 「本来の生」 というものは存在せず、 実験室での境遇の他には 「生まれてこなかった状態」 があるのみである。 実験室での生が 「生まれてこなかったこと」 よりも悪い、 と判断することは難しい。 いかなる生も、 無とは比較できない (ましてや善悪の観点から比較はできない) からだ。 こうして、 捨てられたペットや野生動物を使う動物実験は倫理的に悪いが繁殖動物を使う実験は 「悪くない」 という、 一つの理由があるように思われるのである。 この 「理由」 を検討することを回避しては、 動物実験廃止派は説得力ある反対運動を続けることができないだろう。(次ページに続く)