三浦俊彦 - エッセイ索引

Column:『広辞苑』には「差別語」ということば、載っていませんが・・・

* 出典:『翻訳の世界』1993年12月号掲載 | 関連論文


 私が勤める女子大の「紀要投稿要領」文系第3項に、不思議な条文がある。曰く、
 <差別用語を用いないよう留意する。>
 医学用語とか美術用語とかと同じく、「差別」という文化があってそのための専門用語が差別用語-という印象は私の一瞬の幻想だったろうか。最近は差別用語と言うより差別語、差別表現と呼ぶ方が多いようだ。しかし「◎◎は差別語だ」という言明も一般に、純粋な平叙文というより、「◎◎は差別用であるはずだ」「差別に使われねばならない」という裁定を含んでいる。やはり差別という文化が大切に維持されねばならないかのように。
 大学院生だった頃、韓国人の留学生に「女ではなく女性と言わなくてはいけないんでしょう」と言われて首を傾げたことがある(尾辻克彦のエッセイにも似た発言が引用されていた)。男という語はいけないとは彼は習わなかったようで、しかし「男」「女」は対語だから、意味論的特性も語用論的特性も本来同じであるはずなのだが。
 ただ言われてみれば確かに、日常会話やテレビで「何々の男が」はともかく「何々の女が」と聞くと多少下品な響きがすることは否めない気がする。しかし現在かりに女が差別されているとして「『女』は差別語だから使わないようにしよう」ということになったら、これは性差別をなくすどころか逆に差別を助長することは確実である。差別語というレッテルは、言葉が表わす現実へ逆浸透して、差別文化(タブー)の防腐剤として働く。
 にも拘らず、なまじ親しい生理感ゆえ禁忌で封じられる言葉の何と多いこと。子どもの頃読んだ『将棋入門」(建部和歌夫著、秋田書店)の一節「明治のむかし、関澄伯理(せきずみ・はくり)というめくらで七段の先生がいましたが、この関澄先生のしろうとのおでしさんで大阪屋喜兵衛(おおさかや・きへえ)さんという……」この文脈では、これら連なる和語の肌触り以上に自然で美しい表現はない。「盲人で七段の」とか「目が不自由で七段の」とか書き換えた文を小学生が読んだら、その子にとって関澄先生は遠い、衛生的な別世界に隔離された存在になるだろう。
 言葉は確かに侮蔑的に使われることがある。が、侮蔑専用に使わねばならない語などはない。ましてや特定の範疇の人を茶化すのは断じてならぬと監視するのは、却って不明朗な差別だろう。状況次第で嘲りやからかいの対象となることは万人自然の基本的人権である。ある人々の前でのみ常に真顔を作って咳払いし、福祉語で謹んで遇する社会は、仮装した疎外社会だ。ぎっちょは差別語だから使うな、と言いはじめる善意の市民がいたら、左利きの私は「余計なお世話です」と呟くだろう。どんな語句も時に.悪意で時に朗らかに使えるという事実を歪めたところに人間的触合いはない。変えなければならないのは言葉ではなく、われわれの言語感覚なのです。