三浦俊彦「結ぼれ、了解、異文化、鼠−R. D. レインの視線−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.8)  分析医が患者の心的紛糾を実感をもって把握せねばならないのと全く同じように、こうした形式で織りなされた「模様」を作品として読もうとする者は、それらを論理的・構文的につまり知的に理解するのみでなく、情緒的レベルにて了解することができるところまで行かなければならないであろう。而して確かに、#4や#5を−#2や#3のような無限循環さえも−辛抱強く凝視しているうちに、あたかも仮性近視の目を遠くの文字にじっと据え続けていると何もかもが明瞭に像をむすぶ一瞬がふっと訪れてもくるように、温かい実感としてそれら句節の内包が了解される刹那がくっきり現われてくるのをわれわれは認めることができる筈である。その刹那がとび去るやたちまちにしてわれわれの目にはもとのどうしようもない紛糾、ただのこんがらがった論理的文列が立ち現われ冷たい抽象模様に囲まれることになるのであるが、ともかくも了解の刹那には確かにわれわれの意識は、ある特殊な新しい世界に向って開かれた経験を味わうことになるのだ。
 それは果して詩的経験と言えるであろうか。レインの(詩節)がわれわれ読む者に要求するのは、むしろ論理学の演習に似た心的運動ではないだろうか。しかし、結ぼれの図式の了解は、数式の外延的連結のありさまからそれが内包的に意味するところを納得するようになることによりも、オーソドックスな詩作品の複雑な隠喩を実感をもって理解できるようになることの方に一層近いと言ってよいとも思われる。いかに形式化されようとも、そこに少なくとも潜在的に描写されているのは、人間の一回的な生動的体験に他ならない。臨床から出発した『結ぼれ』の諸シェーマは、それゆえあくまで生(なま)の心的力動性に全編彩られている。そして、先にわれわれが自作の一つの図式から代入によって導き出してみた5つの文a、〜e、がそれぞれ全く異なった雰囲気を放つものとなっているように、論理的に単一なシェーマの中にさえ無限に多様な人間的内実が孕まれていることがわかるのである。(さらに言うならば、レインの形式化したシェーマは、特定形式への代入決定後においてさえ多様に変貌しうるほど論理的に「ゆるやか」なものである。例えばaは、時制や法を違えれば、a'、<<彼女に愛されてよかったとぼくが感じていることに対して彼女は自分が嬉しがれればよいのだがと希求している、それでもぼくは結構嬉しい>>等々となる。生産の手続きは単純で、変化は無限である。)(次ページに続く)