三浦俊彦「結ぼれ、了解、異文化、鼠−R. D. レインの視線−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.3)
「もしも、一つの経験と、その経験を知ることとが別々のことであるとすれば、経験が現に起こっているときわれわれは必ずそれを知っているのだという想定は、一々の出来事を無限に多層のものとすることになる。私が熱いと感ずる。これは1つの出来事である。私は私が熱いと感じていることを知る。これは第2の出来事である。私は私が熱いと感じていることを私が知ることを知る。これは第3の出来事である。かくして無限にすすむことになるが、これは不合理である。それゆえ、私の現在の経験と私がその現在せる経験を知ることとは区別不可能な同一のことであると言うか、或いは、原則としてわれわれは自分の現在の経験を知っていないのだと言うか、しなければならない。全体として言えば私は、「知る」という一語を、知ることが知られるものとは異なっているという意味に用いる方がよい・そして原則としてわれわれは自分の現在の経験を知らないのだという帰結を受けいれる方がよいと考える。」(B. Russell, An Inquiry into the Meaning and Truth, 1940, pp.49-50)
 ラッセルが認識=知ることについて語っている右のことは、他のさまざまな精神志向作用についても同様に論ずることができるだろう。
 イギリスの精神分析医レイン(Ronald David Laing, 1927 - )の作品の人物たちには、ラッセルが「不合理(アブサード)」と呼ぶところの現象がひんぴんと起こっている。主として2人の人物の間に、「知る」「傷つく」「欲する」「恐れる」……といった志向作用が響きあい反射しあって、合わせ鏡のように無限に増殖していく。(1)

 ジャックは傷つく
 ジルがこう思っていると思って、即ち
 彼ったら、(彼が)傷つけられることで
 私を傷つけているんだわ、
 というのも彼の思いは
 彼を傷つけて悪いことをしてしまったわ 
 と感じさせることで
 彼が私を傷つけていると私が思うんだな
 ということだわ、と
 それは(彼女が)こう思っているからだ、
 彼が私を傷つけていると私が思うんだなと思って
 それで(彼が)傷つけられることで
 彼は私を傷つけているんだわ、と
 それは次の事実による
         始めから果てしなく(ダ・カポ・シネ・フィネ)
                (前掲#2)
(次ページに続く)