三浦俊彦「結ぼれ、了解、異文化、鼠−R. D. レインの視線−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.17)  執拗に人生の不幸を暴き描いてみせたレインの理論書も詩作品も、その根本動因はまさしくここに帰着する。前節にてわれわれがレインに便乗して・しかし然るべく展開させ始めたメカニカルな詩的幻想創出の戯れなどは、ましてや彼の全関心中ほんの二義的三義的なものにしかすぎなかった。彼の目は戯れを透過して「真実であるもの」に迫ろうとする。「真実」あるいは「正しい生き方」とは何かを実感了解することは、『結ぼれ』のあの九重十重に錯綜した状況を実感了解するにもまして難しいことであるかもしれない。しかしレインは、了解すべきそれが実在すると信じている。正しい生き方−『結ぼれ』の無限反復をあるがままに認知し内側から把握洞察しようとするこの詩人分析医は、そうした無限増殖を有限時空内にては「不合理」なこととして切り捨て科学構成主義で押し続けんとしたあの反核の闘士バートランド.ラッセルと、究極的には同じ方向を見つめている(・・・ニスギナイ・・・)のである。(了)


(1)西欧科学主義と機械論を弾劾して「ベルグソン、サルトル、ユングの"野生の精神"」を賞揚(The Facts of Life, p.143)、反精神医学の旗手とされるレインが、哲学的にラッセルのような人とは最も遠い立場にあることは見やすい道理である。次を参照せよ。「……「内」とはわれわれがわれわれの身体や他者や生物界や非生物界を経験する仕方を表現するためのわれわれのイディオムなのです。それは想像、夢、夢想、さらにはそれらを超えて経験の達しうる限りどこまででも拡がっていくのです。バートランド・ラッセルがかつてこう言ったことがあります、星は人間の脳の中にあるのだ、と。私が知覚する星が私の脳内にないのは、ちょうど、私が想像する星が脳内にないのと同様です。(中略)経験と行動の関係は、内と外との関係ではないのです。私の経験は私の頭の内側にあるのではありません、この部屋についての私の経験は、私のそとに、この部屋にあるのです。」(レイン『経験の政治学』1967、笠原嘉・塚本嘉壽訳、みすず書房) ラッセルの当の理論は例えば次を見よ。「・・・・・・一般的に言って、物理的世界における諸過程は全て一定の方向を(中略)もった因果性を含む。まさにこの理由にもとづいて私は他のすべての哲学者がとんでもない(ショッキング)とみなす一つの見解、即ち、人々の思想は人々の頭の中にあるという見解を主張するのである。星からの光は介在する空間を通り、視神経においてある種の撹乱を起し、最後に脳髄内の一箇の事件となる。私が主張するのは、脳髄内のその事件がそのまま視覚なのであるということだ。私は実際、脳髄が諸々の思想から成っている、と主張する。(中略) 私の主張する通り、物理的空間時間 space-timeにおける出来事の位置づけ(ロケーション)が、因果関係によって行なわるべきだとすれば、あなたの知覚内容は、眼や視神経の中にあって脳髄へと向いつつある諸出来事のあとに続いて生ずるのであるから、あなたの脳髄の中に位置づけられねばならない。」(B. Russell, My Philosophical Development, 1959, pp.18-19 下線三浦) 外界・対人的空間へと拡がるレインの経験空間に対して、時空的に物理的脳髄に局限されたラッセルの経験空間が、出来事としての経験の無限増殖を容れる余地のないことは明らかである。(次ページに続く)