展覧会評
 
 カバコフの内部の生まれ変わりの衝動は、芸術理念だけでなくその家庭環境も与かっているに違いない。沼野充義編著『イリヤ・カバコフの芸術』(五柳書院)第一部の評伝的解説によると、カバコフは、母親の一度の妊娠中絶を経ての初産の子供であり(再度の受胎……)、成行で結婚したにすぎず愛情のかけらもない夫婦生活だったと母親は回想しているらしい。父親はイリヤにほとんど印象を残さないまま出奔し別の家庭を持つ。父と母の必然的な結びつきからかけがえのない自分が誕生したという意識を抱けなかったイリヤ・カバコフだからこそ、「私は子供の頃から「アイデンティティがないというコンプレックス」をもっていました」(Ⅱ,p.57)という浮遊感に苛まれたのであろうし、ソ連のイデオロギー型芸術界からベルリン~ニューヨークへ移り住んで「西側」の個性至上主義型芸術界へ身を投じたとたん、自己の個性=アイデンティティ欠落感の反動が爆発し、いわばカバコフ自身の反実仮想的アイデンティティの創造へ向かわざるをえなくなったのだろう。アイデンティティなき個性がそのまま転生幻想に結晶するというのは、出来過ぎなほど自然な流れであろうから。
 水戸芸術館でこの展覧会が開かれたことは、カバコフの水戸芸術館評(Ⅱ,p.7)とは別の意味でまことに適切であったことが、会場から出て晴天の外気に触れたときになってじわじわと感じられてきた。カバコフは美術館内の光に言及していたが、カバコフ=ローゼンタールとの巨大な共鳴因は館の外にもあったと思われるのである。「塔」だ。二百円の入場料を払ってエレベーターでてっぺんの部屋へ辿り着き潜水艦のような丸窓から四囲を眺めおろせるこの「塔」は、独特の傾きと捩れを百メートル上空まで銀色に輝かせており、DNA二重らせんの形を擬していることが一目でわかる。このDNAは生誕以前の単なるDNAとして固有名詞らしい名がなく、ただそっけなく「塔」と呼称されるのみである。一般名詞で指示される個体としての塔。この個性的だが匿名の塔が庭に聳え立つこの美術館だからこそ、さまざまな個性をまとって輪廻転生する芸術家の、総体的にはエーテルのごとき無人称の芸術意志に還元される、遊戯表現DNAの産物『シャルル・ローゼンタールの人生と創造』が企画されたのではないだろうか。(次ページに続く)