三浦俊彦 - エッセイ索引

(エッセイ)三浦俊彦「書評という楽園~ビジネス界の珊瑚礁」

* 出典『図書新聞』2003年7月5日号


 仕事柄、全く異なる二種類の書評を書く機会に恵まれている。一般書の書評と、学術書の書評である。
 一般書の書評は、多くても五枚程度、新聞書評なら一~二枚がほとんど。他方、これまで私が学術雑誌に書いた書評はたいてい二十枚前後、長いのでは五十枚を超える。つい昨日ゲラを返送した『科学哲学』掲載用書評も三十五枚。全文の八割が、対象本の誤謬の指摘で埋め尽くされている。
 肯定的な評価に終始したいほど優れた学術書ならば、書評よりむしろ論文で引用なり言及なりいくらでも利用すればよい。欠陥を指摘することにこそ、あえて書評する意義がある。学術書は主な読者も読まれ方も影響もほぼ決まっているので、間違いの拡大再生産防止上、早急に批判せねばならない。さてそれでは一般紙誌での書評は?
 読者不定のことが多い一般書評は、「こういう本が出ました、読んでみては」という紹介の意味合いが濃いだろう。欠陥を挙げつらったのでは、「貴重なページを使って何のために書評したのか」ということになる。一般書の書評は、そもそも書評すること自体に第一義がある。「書評で取り上げる価値あり」という賛辞が、第一行より先に始まっているはずなのだ。
 私は書評を始めた頃、この違いがわかっていなかった。学術書評は大学院生の頃からやっていたので、一般書評を依頼されるようになってからも、びしびし欠陥を突くことこそ正しい書評だと思っていたのである。
 ところがどうもおかしい。鋭く不備を指摘したつもりの書評原稿の受けが悪い。担当記者や編集者に露骨に嫌がられる。書き直しを求められることもある。もちろん今は、一般紙誌の書評の本質が理解できている。書評は基本的に紹介であり販促の一環であって、議論の場ではないということがである。
 こう言うと皮肉のように聞こえるだろうか。批判も大いにやっていただいて結構、一般紙誌の書評欄といえどもベタ誉めばかり求めちゃいませんよと。しかし学術書評で許容される「批判」とは、全面否定に近い攻撃も含むのだ。難点含みの本こそ学術誌では検討されるべきなのである。一般紙誌での「批判」はといえば、好意的な紹介の中に疑問点を添える程度にとどめねばならないだろう。こき下ろしは別の場でやればよい。そう、一般書と学術書では、評のあり方が逆なのだ。〈否定は書評で敬意は論考で〉が学術書。〈敬意を書評で否定は随想で〉が一般書。これはサークル内の付き合いと不特定多数の人間関係との違いに相当すると言えそうだ。
 こういう常識をいったん理解すれば、「販促としての書評」なる文化は全く当り前のことと感じられる――かというとそうではない。逆。むしろ驚きが込み上げてくる。出版界の特異性を痛感することになるのだ。他の業界であれば、製造業だろうが金融業だろうが、教育や芸能界のようなところですら、他社の企画を賞賛することが奨励されるなどという風土はほとんどないだろう。他社の肯定は自社の否定につながる。これが企業の論理ではないだろうか。
 出版社は違うようだ。出版社ごとに特有の得意分野と企画傾向があるにせよ、著者は必然的に共有であること。編集者はクリエイター資質を持つ者が多いため、納得ゆく企画のため社から社へ移ることが他業種の社員に比べ多いこと。また出版界全体が、社会的影響力のわりに経済規模の小さな業界だという要因もあるだろう。共存共栄というと俗だが、やはりそうとしか言いようのない精神が暗黙に行き渡っている。自社の雑誌でデビューした作家に他社から執筆依頼がきたとき喜ばない担当編集者がいるだろうか。そう、出版という一会社の、独立採算の各部署が出版社だというイメージを私は抱いているのだが。
 むろん、版権問題等で出版社どうし愉快ならざる関係に陥ることもあろう。しかしそれ系統で私がいちばん感動したのは、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』競訳のときである。河出書房版の丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳の改訳が、同じ訳者によりなぜか集英社から刊行された。河出書房新社はこれに対抗して、柳瀬尚紀の新訳をぶつけたのである。このとき両出版社間に確執があったなどと勝手に推測してはいけないが、外野から見て血沸き肉踊る大舌戦が期待されたことは事実だし、少なくとも両出版社が、あえて相手方の新訳を持ち上げたくなる心理状態にはなかったことは確かだろう。
 ところがこのとき私は、集英社の雑誌『すばる』から、柳瀬尚紀の新著『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(岩波新書)の書評を依頼されたのだった。『ユリシーズ』第12章の「俺」が実は犬だという「新発犬」をスリリングに説き起こした本だから、明らかに集英社版の否定につながりかねない危険な本だ。ふーむ、集英社がよくぞこれを……私は感動しながら、もちろん読んで感じたまま絶賛の書評を送った。『すばる』の編集者ももちろん喜んだ。
 これなのだ。これが出版界の、俗な競争論理では尽くされぬ風土なのだ。文化創造をになう業界だけのことはある。ビジネス界のオアシスというか珊瑚礁というか。心底薦めたい本を書評し、編集者にも喜ばれ、出版社どうしの連帯がありありと感じられ、日本語文明の水準向上を夢見ることができる。
 いやもちろん、学術誌上の書評は依然としてびしびし行かねばならぬ。これはこれで別。学術書の確かなレベル改善こそが、間接的に一般書の質を上昇させ、お薦め本の増加をもたらし、書評が楽しくなってゆくという良循環システムだ。まったく、書評とはなんと素晴らしい仕事か。
 もちろん現実には協調ばかりではない、チーズが消えたんだかバターが溶けたんだか、営業上の醜い争いもしばしば起きてはいるようだ。私自身も最近、まことに奇妙な経験をした。A社刊の拙著について、B社から「うちで出すはずの本をなぜ無断で他社から」とクレームがついたのである。B社用の原稿はちゃんと別にあると言っているのに聞く耳持たず、なんと訴訟に。これには驚いた。自社の利益を損なう「二重契約」は不法だというのがB社の言い分らしい。複数の出版社から類似の本を出す著者の自由よりも、暗黙の企画独占権(?)を尊重しろというわけだ。
 なんともアンチ書評的なというか、どんな珊瑚礁にも、自分の住処ごと食い荒らして自他滅亡させるオニヒトデみたいなのが必ず居るということか。せっかくの美しい共生の生態系を全くもう。まあ被告にされてしまった以上、出版倫理を再確認する好機としてせいぜい頑張ろうとは思うが、その間、いい書評を書き続けて、出版界の共栄と知的洗練と倫理的向上に貢献し続けたいものであるな。