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ラッセル「もっと豊かな,もっと智慧にめぐまれた知力を(1967年講演/牧野力(訳))
『英語研究』1967年8月号,pp.24-26 & 9月号,pp.36-38.

* 'More and wiser intelligence' (delivered in 1967). In :INFA (=India News and Feature Alliance), May 15, 1967

* 訳者:牧野力(1909〜1994):ラッセル協会設立発起人の一人(ラッセル協会常任理事)。
* (故)牧野教授追悼


 私が第一次世界大戦後まもなく中国から帰った時,中国とその倫理思想について,全米婦人クラブで講演しました。いつも,講演の間中ずっと眠っているように見えた一人の尊大な態度の婦人がいました。話が終ると,きまって,私に質問しました。中国国民異教徒であるから,どんな徳目も勿論持つはずのないことに言及すべきなのを,何故私がそれを省いたのかと,その理由を尋ねるのです。'よそ者たち'がニュー・イングランドの清教徒やソルト・レーク・シティーのモルモン宗徒の中にまじって,初めて暮らすのを許された時,これらの清教徒や宗徒がこの婦人と似た態度をとったにちがいないと,私は想像しました。
 中世を通じて,キリスト教徒回教徒とは互いに相手の邪悪さを完全に教え込まれ,自分たちの優越性の真偽に決して疑念を抱きませんでした。それは,今日(注:1967年),冷戦において,互いに戦う共産主義者と資本主義者との国家群に似ています。
 これら全部は,'尊大な'気分になるには楽しい方法です。楽しい気分になるには,'うぬぼれ'を支えてくれるものが何でも私たちには必要です。われわれは人間だから,創造されるものは人間のために存る,と考えます。自分たちがアメリカ人であるから,従って,アメリカは神自身の国とうぬぼれます。自分たちが白人であるから,従って,神はハム(注:旧約聖書では,ハムはノアの三人の息子の一人(=次男)で,アフリカを中心とする人類の祖先としている。)と黒人たるハムの子孫を呪いました。自分たちが,新教徒あるいは旧教徒であるから,新教徒は旧教徒を,あるいは旧教徒は新教徒が大嫌いなのです。自分たちが男だから,従って,女は非合理的だと思います。あるいは,自分たちが女だから,従って,男は残虐だと思います。自分たちが東洋人だから,従って,西洋人は乱暴で粗野にみえます。自分たちが西洋人だから,従って,東洋人は老衰してみえます。自分たちが頭脳を使って働くから,従って,えらいのは教育を受けた階級だと考えます。あるいは,自分たちが手足を使って働くから,従って,肉体労働者だけがえらくみえます。結局,何よりもまず,われわれにはめいめいに全く独特な一つのとりえがあります。だから,われわれは独自の存在なのです。
 これらの自己を慰めてくれる考えを抱いて,われわれは世界との戦いに出かけ,これらの考えを抱かないと勇気がくじけます。これらの考えを抱かないでは,現状では,平等意識を身につけていないが故に,われわれは劣等感に襲われます。もしわれわれが,己を隣人たちと平等な者であることを,彼らが己よりも勝る者でも,劣る者でもないことを,心底から感ずることができれば,多分,人生に戦いはもっと少くなります。そして,われわれに勇気を与え興奮し,夢中にさせる宗教の架空の話もずっといらなくなります。
 人類は破滅の危機にあります。そして,今や,昔もそうだったように,恐怖心から人々は神のふところに安らぎを求める傾向があります。西欧全体に,非常に広く,宗教の復活がみられます。ナチスと共産主義とはキリスト教を否定し,われわれのなげかわしく思う事柄を行いました。ヒットラーやソ連政府がキリスト教を否認することが,少くとも部分的には,われわれの紛争問題の種だとか,また,再びこの世界がキリスト教を信仰することになれば,国際問題も解決するだろうとか,結論を下すのは容易であります。
 これは恐怖心から生れた全く見当ちがいの考えと,私は信じます。そして,それを危険な思い違いと,私は考えます。何故ならば,もし別な考え方をすれば,成果を得て,次に正当な解決の道につける人間に,却って誤った導きをすることになるからであります。この世界がよくないことは否定できない事実です。しかし,キリスト教が一つの解決策を提供できると期待してよいどんな小さな根拠も歴史上には存在しません。われわれを苦しめる問題は,ギリシャ悲劇の示す仮借なさで,第一次世界大戦から生れました。共産主義者とナチスとはその大戦の落し子です。第一次大戦の由来は全くキリスト教にありました。ドイツ,オーストリア・ハンガリーそれにロシアの3人の皇帝は熱心なキリスト教信仰者でした。また,イギリス内閣の一層好戦的な閣僚たちもまた敬虔なクリスチャンでした。戦争反対の声も叫ばれました。ドイツとロシアとにおいてはキリスト教に反対する社会主義者たち,フランスにおいてはジョレス(Jean Leon Jaures, 1859-1914,政治家。1905年,統一社会党を結成。第一次世界大戦直前国粋主義者に暗殺される。)−− 彼を暗殺した者が信心深いキリスト教徒から拍手を受けました−−,イギリスにおいては有名な無神論者ジョン・モリーがいました。共産主義の最も危険な特色は,中世時代の教会を思い出させる点にあります。それは,教典にのっている原理を狂信的に受け入れること,これらの原理を批判的に検討するのを好まないこと,さらに,原理を信奉しない人々に野蛮な迫害を加えることであります。
 われわれがしあわせな結末を期待できるのに違いないのは,西欧に狂信と偏執とを復活させることではありません。そのような復活が,もし起れば,共産主義政体の憎むべき特色が普遍的に拡がる外ありません。世界に必要なものは,道理にかなうこと(合理的であること),寛容であること,そして,人類全体が相互依存を実現することです。この相互依存は現代の発明によって甚だしく増大してきましたし,また,隣人への思いやりのある態度を支持する純然たる現世的な論拠が,過去のいつの時代よりも,ずっと強くなっています。われわれが期待をかけねばならないのは,そういう考え方であって,人間の啓蒙(啓発)を喜ばない人々が考え出す架空の話にあと戻りすることではありません。知力,そう呼ばれるかも知れないものが,われわれの紛争問題を引き起してきましたが,それを解決してくれるのは,無知ではありません。もっと豊かな,もっと知慧(智恵)にめぐまれた知力だけが幸福な世界を築くことができるのです
 「ラッセルはかつて宗教的信奉に反対していたが,段々鉾先がにぶってきた」という趣旨の噂が近頃出ています。この噂は全く根拠がありません。世界の大宗教,例えば,仏教・ヒンズー教・キリスト教・イスラム教及び共産主義などはみな,虚偽であると共に有害である,と私は今でもみなしています。これらの宗教が互いに合致しないから,真正のものは唯一つしかないことは,論理の上からも明白です。ごくまれな例はあっても,大体,人間の信仰する宗教はその人間の生きている社会の宗教です。このことから,環境のもつ影響力がその人間の当該の宗教を信仰するように仕向けてきたことは明らかです
 中世の教会哲学者であるスコラ派の人々が,神の存在を証明する論理的な議論と自称する論法を案出したのは真実です。そして,これらの議論あるいは同類の趣旨の他の議論が多くの著名な哲学者たちに承認されたのも事実です。しかし,これらの伝統的な議論の基礎となる論理は,今日では,カトリック教会のお抱え論理学者は別として,実際にはすべての論理学者に否認されている時代遅れなアリストテレス流の論理であります。これらの議論の中の一つに,純枠に論理に反するものが一つあります。
 神の統一的な設計(デザイン)という発想から生れる議論のことを私は指すのです。しかしながら,これはダーウィンによって論破されました。そして,とにかく,この議論は,神の全能という考え方を捨てるだけの犠牲を払うと,はじめて論理的に尊敬されるようになりましょう。論理上の説得力の点を離れて言えば,全知,全能,かつ慈悲深い神が何百万年もかけて生命のない星雲状態の地ならしをした後で,ヒットラーやスターリン,それに水素爆弾が遂に出現したことで,神がふさわしい報いを受けたと考える人々に倫理的な価値を与えるのは,どこか少し奇妙なところがありそうです。宗教の真実性宗教の有効性とは別個の事柄です。どの宗教も真理でないと共に有害だということに,私は不動の確信を抱いています宗教のもたらす害に二種類あります。一方の害は,その宗教に当然与えられるべきだと考える信念の性質から出てくるもので,他方の害は,信仰している特別の教義から出てくるものです。信念の性質について言えば,信仰することが,即ち,逆の証拠に心が動揺するはずのない確信を抱くことが,有徳であると考えられています。あるいは,もし逆の証拠から疑問が湧くかも知れなければ,その逆の証拠を仰えねばならぬと考えるのです。そういう理由で,ソ連においては資本主義に味方する議論が,あるいは,アメリカにおいては共産主義に味方する議論が,若い人々に聞かされません。これは,'共倒れ戦争'にそなえて,両方の信仰が,無傷で,役に立つようにしておきたいからです。自由に調べればその信念を信奉しなくなろうとも,これかあれかを信ずるのは重要なことだという確信は,ほとんど全部の宗教に共通する確信であって,国家主義教育の組織全体を感激させます。その結果,若い人々の心が発育を阻害されてしまいます。そして,他の狂信主義者たちと,また,一切の狂信主義に反対する者との双方に狂信的敵愾心を抱きます。特に,後者には,前者に対する以上の悪意に満ち満ちたやり方で敵対するのです。証拠の上に立って確信を抱くという習慣,確信を抱くには証拠が保証してくれるあの正確さの程度だけにたよるという習慣,この習慣がもし一般にひろまれば,この世はその苦しんでいるいろいろの不幸の大半から救われることでしょう。しかし現在,たいがいの国々において,教育は,そのような習慣が育成されないようにねらっています。そして,根拠のない教義に基づくある思想体系への信奉を表明したがらない人々に,若者の教師として不適格だと烙印を押します
 このような害悪は,問題になる特別の信条だけに限ったものではなく,教条的に教え込まれる一切の信条に均しく存在しています。しかし,たいがいの宗教には,はっきりした害を与える特定の倫理的教義もあります。カトリック教が産児制限を罪と宜言することは,もしこれ(産児制限=罪,という考え方)が普及すれば,貧困緩和と戦争廃止とを不可能にすることでしょう。牛を神聖な動物としたり,また,寡婦の再婚を邪悪視したりするヒンズー教の信仰は,全く無用な苦難を引き起します。忠実な共産主義信奉者の集まる少数グループで独裁政治を行うのが正しいと信ずる共産主義者たちの信念は全般的な憎悪感を続出させます
 '狂信'こそ社会的集団を有効に働かせうるものという言葉をよく耳にします。これは,歴史の教えるところに全く反していると,私は考えます。しかし,とにかく,何かに盲従して成功を崇拝する人々(注:成功を盲目的に崇拝する人)だけは,もたらされた結果には無頓着に,効果があることだけを有難いと思います。私としては,沢山害を与えるよりも,善いものを少し与える方がずっとよい,と考えます。
 私の待望する世界は,集団的敵対行動という毒素に染まらない世界,万人の幸福は闘争からよりも,むしろ協力から由来することを認識する世界です。また,公正な証拠の鉾先に対抗して,若者たちを生涯かばうつもりで,若者たちの心に独断論という頑固なよろいを着せてしばることを教育がねらっている世界よりも,むしろ,教育が精神的自由を目指す世界であります。今日の世界には寛大な心情ととらわれない理知とが必要です。そして,これらが生れるのは,組織が古いとか新しいとかに関係なく,頑固に凝り固まらない組織からであります。(終)
Russell Declares 'More and Wiser Intelligence'
Bertrand Russell's War Crimes Tribunal, having found the United States 'guilty' of two counts at Stockholm, now plans further 'prosecutions' against America over Vietnam. Russell, although absent from the 'trial', was its guiding spirit, and his own accusations against the Americans have shocked many of his admirers. He cerebrated his 95th birthday on May l8. In spite of his old age, he still declares positively.

WHEN I returned from China shortly after World War I, I lectured on that country and its ethical beliefs to Women's Clubs Across America. There was always one important lady who appeared to be sleeping throughout the lecture, but at the end would ask me why I had omitted to mention that the Chinese, being heathen, could of course have no virtues. I imagine that the pilgrims of New England and the Mormons of Salt Lake City must have entertained similar attitude when 'strangers' were first admitted among them. Throughout the Middle Ages, Christians and Muslims were entirely persuaded on each other's wickedness and never doubted their own superiority; so today the contending Communist and capitalist power blocs In the cold war.
All these are pleasant ways of feeling 'grand'. In order to be happy we require all kinds of supports to our self-esteem. We are human beings; therefore human beings are the purpose of creation. We are Americans; therefore America is God's own country. We are white; and therefore God cursed Ham and his descendants who were black. We are Protestants or Catholics, as the case may be; therefore Catholics or Protestants, as the case may be, are an abomination. We are male; and therefore women are unreasonable; or female; and therefore men are brutes. We are Easterners; and therefore the West is wild and wooly; or Westerners; and therefore the East is effete. We work with our brains; and therefore it is the educated classes that are important; or we work with our hands; and therefore manual labour alone gives dignity. Finally, and above all, we each have one merit which is entirely unique: we are Ourself.
With these comforting reflections we go out to do battle with the world; without them our courage might fall. Without them, as things are, we should feel inferior because we have not learned the sentiment of equality. If we could feel genuinely that we are the equals of our neighbours, neither their betters nor their inferiors, perhaps life would become less of a battle, and we would need less of religion's intoxicating myths to give us courage.
MANKIND is in mortal peril, and fear now, as in the past, is inclining men to seek refuge in God. Throughout the West there is a very general revival of religion. Nazis and Communists dismissed Christianity and did things which we deplore. It is easy to conclude that the repudiation of Christianity by Hitler and the Soviet Government is at least in part the cause of our troubles, and that if the world returned to Christianity, our international problems would be solved.
I believe this to be a complete delusion born of terror. And I think it is a dangerous delusion because it misleads men whose thinking might otherwise be fruitful and thus stands in the way of a valid solution.
That the world is in a bad way is undeniable, but there is not the faintest reason in history to suppose that Christianity offers a way out. Our troubles have sprung, with the inexorability of Greek tragedy, from the First World War, of which the Communists and the Nazis were products. The First World War was wholly Christian in origin. The three Emperors of Germany, Austria-Hungary, and Russia were devout, and so were the more warlike of the British Cabinet.
Opposition to the war came, in Germany and Russia, from the socialists, who were anti-Christian; in France, from Jaures, whose assassin was applauded by earnest Christians; in England, from John Morely, a noted atheist. The most dangerous features of communism are reminiscent of the medieval church. They consist of fanatical acceptance of doctrines embodied in a sacred book, unwillingness to examine these doctrines critically, and savage persecution of those who reject them.
It is not a revival of fanaticism and bigotry in the West that we must look for a happy issue. Such a revival, if it occurs, will only mean that the hateful features of the Communist regime have become universal.
What the world needs is reasonableness, tolerance, and a realization of the interdependence of the parts of the human family. This interdependence has been enormously increased by modern inventions, and the purely mundane arguments for a kindly attitude to one's neighbour are very much stronger than they were at any time. It is to such considerations that we must look and not to return to obscurantist myths. Intelligence, it might be said, has caused our troubles, but it is not unintelligence that will cure them. Only more and wiser intelligence can make a happier world.
THERE has been a rumour in recent years to the effect that have become less opposed to religious orthodoxy than I formerly was. This rumour is totally without foundation. I think all the great religions of the world - Buddhism, Hinduism, Christianity, Islam, and Communism - as both untrue and harmful. It is evident, as a matter of logic that, since they disagree, not more than one of them can be true. With very few exceptions, the religion which a man accepts is that of the community in which he lives, which makes it obvious that the influence of environment is what has led him to accept the religion in question.
It is true that the scholastics (medieval church philosophers) invented what professed logical arguments proving the existence of God and that these arguments, or others of a similar tenor, have been accepted by many eminent philosophers. But the logic to which these traditional arguments appealed is of an antiquated Aristotelian sort which is now rejected by practically all logicians except such as are Catholics.
There is one of these arguments which is not purely logical. I mean the argument from design. This argument, however, was destroyed by Darwin; and, in any case, could only be made logically respectable at the cost of abandoning God's omnipotence. Apart from logical cogency, there is to be something a little odd about the ethical valuations of those who think that an omnipotent, omniscient, and benevolent deity, after preparing the ground by many millions of years of lifeless nebulae, would consider Himself adequately rewarded by the final emergence of Hitler and Stalin and the H-bomb.
The question of the truth of a religion is one thing, but the question of its usefulness is another. I am as firmly convinced that religions do harm as I am that they are untrue. The harm that is done by a religion is of two sorts, the one depending on the kind of belief which it is thought ought to be given to it, and the other upon the particular tenets believed. As regards the kind of belief; it is thought virtuous to have faith - that is to say, to have a conviction which cannot be shaken by contrary evidence. Or, if contrary evidence might induce doubt, it is held that contrary evidence must be suppressed.
On such grounds, the young are not allowed to hear arguments, in Russia, in favour of capitalism, or, in America, in favour of communism. This keeps the faith of both intact and ready for internecine war. The conviction that it is important to believe this or that, even if a free inquiry would not support the belief, is one which is common to almost all religions and which inspires all systems of state education. The consequence is that the minds of the young are stunted and are filled with fanatical hostility both to those who have other fanaticisms and, even more virulently, to those who object to all fanaticisms.
A HABIT of basing convictions upon evidence, and of giving to them only that degree of certainty which the evidence warrants, would, if it became general, cure most of the ills from which the world is suffering. But at present, in most countries, education aims at preventing the growth of such a habit, and men who refuse to profess belief in some system of unfounded dogmas are not considered suitable as teachers of the young.
The above evils are independent of the particular creed in question and exist equally in all creeds which are held dogmatically. But there are also, in most religions, specific ethical tenets which do definite harm. The Catholic condemnation of birth controls, if it could prevail, would make the mitigation of poverty and the abolition of war impossible. The Hindu beliefs that the cow is a sacred animal and that it is wicked for widows to remarry cause quite needless suffering. The Communist belief in the dictatorship of a minority of True Believers has produced a whole crop of abominations.
We are sometimes told that only fanaticism can make a social group effective. I think this is totally contrary to the lessons of history. But, in any case, only those who slavishly worship success can think that effectiveness is admirable without regard to what is effected. For my part, I think it better to do a little good than to do much harm. The world should wish to see would be one freed from the virulence of group hostilities and capable of realizing that happiness for all is to be derived rather from co-operation than from strife. I should wish to see a world in which education aimed at mental freedom, rather than at imprisoning the minds of the young in a rigid armour of dogma calculated to protect them through life against the shafts of impartial evidence.
The world needs open hearts and open minds, and it is not through rigid systems, whether old or new that these can be devived.
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